« 「黙って神を待ち望む」 | トップページ | 「目をさまして」 »

2014年9月 8日 (月)

「十字架 神の怒り」

                井上慎治神学生

            民数記21章4~9節  ヨハネ3章13~15節

 出エジプトしたイスラエルの民はカナンの地へ。その道中、民は神への不従順を繰り返し、神は怒り民を滅び尽くそうとした。モーセの仲介もあり神は民を赦したが、出エジプトの第一世代は荒野で死に絶え、次世代がカナンの地に入るようにした。そしてカナンの地を目前に民は荒野に引き返し40年間放浪した。40年後、再びカナンの地に入ろうとする直前の話。4~5節 第一世代は荒野で滅びたが、子、孫の世代も神に反抗。神と直接語ることが許されたのは仲保者モーセだけだった。民は 「あなたがたは」 と神とモーセに直接物申した。 幾度も怒りを抑えた神に民はどう映ったのか。
 6~7節 神は燃える蛇によって、その怒りをあらわにした。民は災いが自分たちの罪故であると気づき、蛇を取り除くよう神に祈ってくれとモーセに願った。民は神への畏れを抱いた。8~9節 旗竿の上に付けた青銅の蛇を仰ぎ見れば、生きるという救済措置。神にとって民は滅びるのが相応しい存在で、民の願いは聞き入れなかった。しかし神に従うか否かを試した。ここで生き残った民も民数記25章では異教徒の神々を慕い礼拝、再び神の怒りを招き、滅びることとなった。民の信頼は一時的だった。
 ヨハネ3章13~15節 イエス様がこの荒野で上げられた蛇の出来事を引き合いに出し、十字架の贖罪のわざを語っている。イエス様に信頼する者は永遠のいのちに生きる者となる。ここに神の愛が示された。しかし神の愛の前提にあるのは荒野で民に下されたような神の怒り。Ⅰヨハネ2章2節ではイエス・キリストは全世界の罪のためのなだめの供え物とされている。人に向けられた神の怒りは、罪とは何の関わりも持たなかったひとり子イエスを身代わりに殺すことでやっとなだめられるのである。イエス様に信頼するとは、自分の全てをイエス様に委ねていること。自分に少しでも望みを残していないか。自分をどこか立派で神のために何かできる存在と思っていないか。人間は何かをしたからではなく、生まれた時から完全に罪に堕落している。1%も神に喜ばれ得ない存在。「私は罪人です。でも・・・」 と自分に望みを残すことはイエス様に信頼していると言えるのか。「神が全く正しく、私が間違えていた、私は死んで当然」 と納得することが、イエス様への信頼の源泉。イエス様の十字架を忘れてはならない。

|

« 「黙って神を待ち望む」 | トップページ | 「目をさまして」 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/509576/57310061

この記事へのトラックバック一覧です: 「十字架 神の怒り」:

« 「黙って神を待ち望む」 | トップページ | 「目をさまして」 »