« 2014年8月 | トップページ | 2014年10月 »

2014年9月

2014年9月29日 (月)

「私たちの礼拝するお方」

                 岡村又男師

                詩篇8篇1~9節

 詩篇8篇1節と9節をを見ますと同じ言葉で賛美を始め、賛美で終わっています。「私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。あなたのご威光は天でたたえられています。」
 ここに 「主よ」 と呼んでいる主体が 「私たち」 となっています。『私たちの主よ』 これは共に礼拝している会衆全体を指しています。
 ところが3節から8節を見ますと 「私」 という単数で歌われています。これは共に礼拝している 「私」 を表しています。
 教会の礼拝は、共同体として、「共に神を賛美し」 礼拝します。それと同時に、神が一人一人に語っていてくださるのであり、一人一人が神の御前に出てきて礼拝します。私たちは礼拝するとき、「全体と個」 ということを忘れてはならないということです。
 グンケルという聖書学者は、「この詩篇が歌われるときは、1節2節が合唱で、3節から8節は独唱で、9節はまた、合唱で歌われるという3部からなっている」 と語っています。
 第1は、天地創造に思いを馳せて、創造主である神を誉め称えています。1節から3節に私たちが礼拝すべき神がどのようなお方かということが歌われています。
 第2は、4節から8節に、その創造者である神を礼拝する私たちは、いったい何者なのか、人間とは何なのかということから聖書の人間観が語られています。
 第3は、新約聖書の関係でマタイの福音書にこの詩篇の2節が引用されています。ここから 「主イエス・キリストとの関わり」 について学ぶことができます。(21:16) 1節9節を覚えて告白しましょう。
 「私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。あなたのご威光は天でたたえられています。」
 「私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。」

             

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年9月22日 (月)

「義の実を結ぶ種を蒔く」

               河野優牧師

             ヤコブ3章13~18節

 イエス・キリストは 「平和をつくる者は幸いです」(マタイ5;9)と言われました。平和が脅かされている現代にあって、平和をつくる者の歩みについて共に覚えます。

義の実を結ばせる種
 
ここでは 「義の実を結ばせる種は・・・平和のうちに蒔かれます。」 といって、「義の実」 と 「平和」 とが結び付けられています。イザヤ32:17では 「義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす。」 と教えられています。神の前に義とされることによって 「平和」 が訪れる。聖書における 「平和」 は 「関係」 において語られます。それも 「神と人間(わたし)」 の関係です。罪人の状態は神に背を向け、神から離れている状態であって神との平和がありません。しかし、キリストの十字架による罪の赦しを信じ受け入れるなら、神との関係は回復され、神との平和を得るのです。
 十字架の福音はこの地上に義の実、つまり神との平和という豊かで祝福に溢れた実りをもたらす種なのです。

平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれる種
 
義の実を結ばせる種は 「平和をつくる人によって、平和のうちに」 蒔かれます。カルヴァンは平和をつくる人についてこう語りました。「上からの知恵によって行動する者は、隣人の間にあって多くのことを寛容をもって耐える一方、義を蒔くことをやめず、平和な方法で他の人の過ちを正そうと努力する。」 私たちは、私はどうでしょうか。平和をつくる人でしょうか。
 神がくださる平和・義の実は、キリストにおいてこの地上に鮮やかに示されました。なぜ、私たちは国の指導者たちのために祈るのか、何を祈ればよいのか。イエス・キリストは十字架上にあってもなお、敵のために、自分をあざける人々のために祈られたではありませんか。
 憎しみではなく愛をもって、私たちは愚直に、神の平和のうちにあって、その祝福を現実に享受し、味わい、感謝し実現していく者として、義を結ばせる種・福音をまくことをキリスト者としてやめません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年9月15日 (月)

「目をさまして」

                コロサイ4章1~47節

 「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい」 に傾聴しましょう。
1.祈りの課題
 「目をさまして、・・・」(2節)とあります。「寝ずの番をして」 の意味です。イエス様のゲッセマネの園でのお姿がそれであると思います。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい」 と弟子たちに語られたのですが、弟子たちは眠りこけていました。パウロはコロサイに起こった問題を前に 「目をさまして祈る」 ほどに祈りの必要性を強く覚えていたのです。激動する日本に 「目をさまして祈る」 熱心な祈りが、国の変える力となるでしょう。
2.祈りの態度
 
パウロは 「すべての祈りと願いを用いてどんなときにも御霊によって祈りなさい」 と勧めます(エペソ6:18)。継続は力なのです。「祈り」 も諦めずに実行するとき、神のわざが確かに現されるのです。その祈りを御霊がしっかりと導かれます。御霊の助けをいただいて、たゆみなく祈り続けることです。私たちは神との会話である 「祈り」 を疎かにできません。信仰と忍耐をもって祈るとき神は御手を動かされるのです。
3.祈りの祝福
 
パウロはこの時ローマの獄中にあったでしょう。置かれた環境は軟禁状態でした。パウロの思いは一段と福音の前進に向けられています。周りの困難を突破できる道は同じ信仰に生きる兄弟姉妹の 「とりなしの祈り」 にあると確信しています。キリストの奥義が語れるように祈ってくださいと言及。門が閉じられていても失望しないパウロです。その門を開くことができるのは神であると悟っております。この信仰と祈りの姿勢から私たちも大きな励ましを覚えます。荒廃した日本に神の憐れみが注がれることを信じ、期待して祈りたいと思います。諦めることなく、熱心にたゆみなく祈ることです。失望せず、神の御心がなると確信することです。神に祈り、神が答えたもうことに全面的に信頼することです。霊の目の焦点を自分自身を超えた 「神の無限の力」 に合わせることです。「祈り」 こそ人が後の世に残すことのできる最大の遺産です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年9月 8日 (月)

「十字架 神の怒り」

                井上慎治神学生

            民数記21章4~9節  ヨハネ3章13~15節

 出エジプトしたイスラエルの民はカナンの地へ。その道中、民は神への不従順を繰り返し、神は怒り民を滅び尽くそうとした。モーセの仲介もあり神は民を赦したが、出エジプトの第一世代は荒野で死に絶え、次世代がカナンの地に入るようにした。そしてカナンの地を目前に民は荒野に引き返し40年間放浪した。40年後、再びカナンの地に入ろうとする直前の話。4~5節 第一世代は荒野で滅びたが、子、孫の世代も神に反抗。神と直接語ることが許されたのは仲保者モーセだけだった。民は 「あなたがたは」 と神とモーセに直接物申した。 幾度も怒りを抑えた神に民はどう映ったのか。
 6~7節 神は燃える蛇によって、その怒りをあらわにした。民は災いが自分たちの罪故であると気づき、蛇を取り除くよう神に祈ってくれとモーセに願った。民は神への畏れを抱いた。8~9節 旗竿の上に付けた青銅の蛇を仰ぎ見れば、生きるという救済措置。神にとって民は滅びるのが相応しい存在で、民の願いは聞き入れなかった。しかし神に従うか否かを試した。ここで生き残った民も民数記25章では異教徒の神々を慕い礼拝、再び神の怒りを招き、滅びることとなった。民の信頼は一時的だった。
 ヨハネ3章13~15節 イエス様がこの荒野で上げられた蛇の出来事を引き合いに出し、十字架の贖罪のわざを語っている。イエス様に信頼する者は永遠のいのちに生きる者となる。ここに神の愛が示された。しかし神の愛の前提にあるのは荒野で民に下されたような神の怒り。Ⅰヨハネ2章2節ではイエス・キリストは全世界の罪のためのなだめの供え物とされている。人に向けられた神の怒りは、罪とは何の関わりも持たなかったひとり子イエスを身代わりに殺すことでやっとなだめられるのである。イエス様に信頼するとは、自分の全てをイエス様に委ねていること。自分に少しでも望みを残していないか。自分をどこか立派で神のために何かできる存在と思っていないか。人間は何かをしたからではなく、生まれた時から完全に罪に堕落している。1%も神に喜ばれ得ない存在。「私は罪人です。でも・・・」 と自分に望みを残すことはイエス様に信頼していると言えるのか。「神が全く正しく、私が間違えていた、私は死んで当然」 と納得することが、イエス様への信頼の源泉。イエス様の十字架を忘れてはならない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年9月 1日 (月)

「黙って神を待ち望む」

           詩篇62篇1~12節

 激動する日本と世界、私たちの生き方をみことばに照らして黙想しましょう。
1.黙って神を待つ
 
「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る」 ダビデの生き方、信仰の姿勢です。神の視点から自分とその置かれている場所を見極めています。自分の思い、願い、計画が実現できず苦しむことがあり、失望、落胆することがあります。ダビデは人間が経験する歩みの中で 「私のたましいは黙って・・」 と100%神に信頼し、神を仰ぎ望み、神のみわざが現実となる 「恵み」 を現実に体験しました。
2.心を注ぎだして神を待つ
 
ダビデは 「あなたがたの心を神の前に注ぎ出せ・・」 と語ります。人間の思い、願いを超えて神の可能性に信頼する姿勢です。もだして神を待つのです。遅くてもひたすら神に信頼して待つのです。「わが望みは神から来る」 と徹底して神のご真実を待ち望むことです。その時心の中の思い煩い、わだかまり、苦しみが消え去るのです。
3.神を待ち望む幸い
 私たちの人生、信仰生涯を展望してみましょう。いろいろなことを経験する私たち、その人生は荒波に乗り出す舟のようです。そこで人にはできないことも 「神にはできる」 と確信するのです。世界宣教大会が終わりました。50年前に国外宣教の必要を訴えた先生のお証しに心が揺さぶられました。9年間の沈黙を破って後、神は今日まで同盟教団の国外宣教を祝され、多くの宣教師を諸外国に遣わされたのです。「神のなさることは時にかなって美しい」 のです。東日本大震災以来3年5ヶ月ですが。不透明さが増している状況です。信教の自由さえ、脅かされかねない風潮が見え、「イエスは主です」 との信仰告白を堅持していきたいと思います。パウロは 「艱難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」 と語ります。信仰と忍耐によって歩んだ人物にヨセフがおります。ヨセフの生涯から 「黙って神を待ち望む幸い」 が見えるのです。想像を絶する苦難を味わったヨセフ。ヨセフのような 「神を恐れる」 指導者が日本に起こされることを主に祈り、待ち望みたいものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2014年8月 | トップページ | 2014年10月 »