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2014年8月

2014年8月24日 (日)

「泥沼に沈み込むときの祈り」

          戸坂聖書教会  砂原和史牧師

           詩篇69篇1~3、3~18、29~36節

 人生はさまざまな問題に直面します。この詩篇の著者は泥沼の中で身動きも取れない絶対絶命の状況です。ある牧師がそのような時の対処法を紹介されていました。
 してはいけない事3つ:①自分で自分を救おうと試みてもがいてはならない・・・自分の力で解決しようとしているうちに力が尽きてしまいます。自分では処理できない問題があることを認めましょう。②他者に救いを求めない・・・共倒れになってしまいます。③もうだめだと諦めてはならない・・・諦めるには早すぎる。「悪すぎてもいけない。愚か過ぎてもいけない。自分の時が来ないのに、なぜ死のうとするのか。」(伝道者7:17)
 すべきこと 3つ:①自分で自分を救おうとすることを諦め、主に救いを求めること・・・素直に主により頼もう。②苦しみ痛みの中で粘り強く神に信頼し、救いを諦めるな。・・・主の助けが遅いように感じているだけで、実は私たちの忍耐が足りないということもあり得ます。
 イエス様と12弟子が舟上で嵐にあったときイエス様は舟のともの方で寝ておられました。その時弟子が 「先生私たちが溺れそうでも何とも思われないのですか」 と叫びます。そんな弟子に対してイエス様は 「あなた方の信仰はどこにあるのか」 と問われます。神様は私たちが苦しんでいるのを遠くから見ておられるお方ではありません。むしろ同じ舟に乗り込み、静かにその状況を支配しておられるお方です。
 この詩篇の著者は13節になると 「みこころのときに」 と言葉が付け加えられています。主よ。急いでください、という祈りの中で、主は御心の時に助けを与えられるという確信の中で祈りましょう。③困難の中でも主に信頼し、神を賛美することです。まだ助けは与えられていないが、共に主がいてくださる事がすでに救いなのだと気付き、安心し、感謝の賛美を捧げるそのような信仰者とならせていただきたいと思います。やせ我慢ではなく、主を見上げる時、そこには必ず救いがあります。
 「あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、 『神をあがめよう』 といつも言いますように」(詩篇70:4)

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2014年8月18日 (月)

「苦しみのときに」

               詩篇91篇1~16節

 神に信頼する者の恵みと祝福の原点についてみことばに傾聴しましょう。
1.神に信頼する人
 
「主はご自分の羽であなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身をさける・・」 と神に対して徹底した信仰の告白です。いと高き方の隠れ場に住む者、全能者の陰に宿る、と表現されています。「信じる」 ことが 「住む、宿る」 と生きて働かれる神との交わりとして解かれています。多くの日本人の感覚とは全く逆です。もっとこの国に神に信頼する者が起こされ、神の祝福から遠ざかっている人々のため祈りが必要です。
2.神への信頼と応答
 
私たちにとって、神の恵みは朝毎に新しいのです。日中の忙しさの中で、一瞬一瞬神が共に歩んでくださっていることに感謝が溢れます。夕には忙しかった仕事を終えて我が家にあって主が疲れを癒してくださいます。今日一日の主の守りに感謝し、寝床に就くとき、そこでも私たちの目は 「主の麗しさ」 に向けられるのです。こうしてパウロは 「心の一新によって自分を変えるように」 (ローマ12:2) と勧めています。これが私たちの霊的な礼拝、神に力強く、積極的に応えていく唯一の方法です。
3.神への信頼と祝福の原点
 
「わたしを愛しているから助けよう、わたしの名を知っているから・・、わたしの名を呼び求めるから答えよう」 と約束してくださる神様です。神へのこのような信頼、そこには打てば響くような神の恵みがある」 と詩篇の記者は告白をしています。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さない生き方です。イエス様は 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければだれひとり父のみもとに来ることはありません」 (ヨハネ14:6) と。神への全面的信頼を疑うことがないようにしたいものです。現状を認めつつも、忍耐をもって祈り続けるところに、私たちの思い願いを超えて神は祝福を満たされるのです。私の信頼するわが神と告白する 「神を愛し」 「神の御名を知り」 「神を呼び求める」 歩みをさせていただきましょう。「打てば響くような恵み、祝福を満たして」 くださる神を感謝します。

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2014年8月11日 (月)

「恵みの測り綱」

                詩篇16篇1~11節

 69年間平和が保たれた日本に、一層神様の憐れみと御旨を祈り求めましょう。
1.信仰といのち
 
「あなたこそ、私の主、私の幸いはあなたのほかにはありません」 とダビデは告白します。ダビデは15、16歳で聖書の歴史に登場、30歳でイスラエルの王とされるまで絶えずサウル王に追い回され、逃亡生活を強いられていたのです。偉大な指導者とされるため神様が備えられた道のりと貴重な訓練、お取り扱いであったのです。こうして 「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。・・・」 と語ります。
2.信仰による希望
 
ダビデはサウル王を主に油注がれた方として、決して自分から手をくだすことはしなかったのです。狙おうと思えば機会が幾度もあったのです。あるとき洞窟にダビデが隠れていることを知らずにサウル王が近くまで入って来て、用をたすということが起こりました。このときダビデは心が揺らぎ、サウル王の上着の裾を切り落としてしまいました。この時以来、一層ダビデは神を恐れて慎みました。(第Ⅰサムエル24章) 神に愛される人は、憐れみ、悲しみのない人ではありません。人一倍苦難の中にあっても、主に守られ、練られ、鍛えられ、信仰を全うする人です。
3.信仰と恵みの測り綱
 
信仰とは、時間空間を超えて目に見えない霊的世界の深みを悟ることです。そこで私たちは 「現状はこうです。しかしこのところから神様あなたのみわざと栄光を・・・」 と祈っていくことです。すべてのことの中に神を認めて祈ることができます。ダビデは 「測り綱は、私の好む所に落ちた」 と告白をします。
 「測り綱」 とはへブル語でカノンです。物差し、尺度、基準を表す言葉です。ダビデにとって 「神の物差し」 それが信仰の基準であったのです。神の御旨に沿って広い展望へと導かれるお方です。まことに私へのすばらしいゆずりの地とも証します。そこからすばらしい信仰生涯とされるのです。信仰と希望は主イエス様にあります。信仰の円塾は、聖霊に満たされ、聖霊に導かれてこそ可能とされるのです。

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2014年8月 4日 (月)

「ひとりぼっちでいいですか」

            赤羽聖書教会 野寺恵美牧師

            マタイ 8章12~27節

 ガリラヤ湖は四方が山に囲まれた美しい湖で、海抜マイナス200メートルという低い所にあるため、時々四方の山々から突風が吹き降り穏やかな湖面が一変する時があります。この時イエス様の小舟にいたペテロをはじめ、弟子たちは吹き荒れる突風に翻弄されていました。イエス様は舟の中で熟睡しており、弟子たちは舟が沈まないようにと襲ってくる恐怖と戦っていました。そして万策尽き果てようとして、はじめてイエス様に助けを求めたのです。もうだめだと思ったその瞬間、イエス様を必要としたのです。イエス様を起しては不満げに 「主よ。いつまでも眠っていないで、早く起きて・・」 と訴えています。弟子たちはイエス様がこの船旅の責任者であることを忘れています。イエス様が弟子たちを召されてお従いしてきたのです。イエス様は嵐を起すことも静めることもおできになるお方です(詩篇107:23~30)。外の状況がどんなに荒れ狂っていても、イエス様の心は大凪のようでした。そしてこの神を見る目がなかった弟子たちの心はこの大嵐以上に荒れ果てしまってイエス様から 「信仰の薄い者たち」 とお叱りを受けたのです。
 私たちもまたこの弟子たちと同じようにイエス様と舟に乗っている者です。いつ何が起こるかわかりません。いつどんなことが起こっても、イエス様がともにおられることを忘れてはならないのです。「わたしは世の終わりまでいつもあなたがたとともにいます」 と約束されるイエス様です。主イエスを信じている私たちは、もうひとりぼっちではありません。イエス様は私たちを愛し、私たちを救うためにあらゆる試みに会われ、私たちの罪の身代わりとなって十字架で死なれました。3日目に死からよみがえられ、今も生きて私たちとともに歩んでくださるお方です。信仰の薄い私たちは、試みの中でつぶやき、ようやく主を見上げるような弱い者です。イエス様を知らずに人生を歩んできた方、イエス様はその方を一番心配しています。イエス様を信じている方々、あれこれと問題に心を奪われないように、嵐は必ず静まるのです。イエス様に目を向け信仰を保ち、イエス様の大船に乗った気持ちで進みましょう。

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