« 2014年5月 | トップページ | 2014年7月 »

2014年6月

2014年6月30日 (月)

「神を恐れつつ前進」

               使徒9章20~31節

 初代教会が直面した悩み、苦しみは福音が浸透する妨げとはなりませんでした。
1.大胆な証
 
サウロは要注意人物、迫害者、暴れ者としてレッテルが付けられていましたが、「以前のサウロ」 ではありませんでした。イエス様と出会って、敵対心は消え、キリストにある喜びが満ちていました。罪を悔い改め、神との和解の中にあったのです。神を信じた恵みは、黙って心にしまっておけません。聖霊が私たちを語るように、証するように導かれます。聖霊の大きな励ましがあって 「イエスは主です」 と大胆に証できるのです。福音を恥としないパウロです。
2.教会の一致と連帯
 
神様はサウロのためにアナニヤともう一人バルナバを立ててくださいました。アナニヤはサウロに対する警戒を主に訴えています。しかしサウロに対する神のご計画を知って、その後アナニヤは 「兄弟サウロ」 と声をかけています。バルナバもサウロをエルサレム教会に連れていきました。多くの人々は神の恵みのみわざを知って、主にある仲間として迎え入れました。これによって教会に 「聖霊による一致と連帯」 が生み出されていったのです。
3.教会の確かな成長
 
「こうして教会は・・・築き上げられ、聖霊に励まされて前進し続けた」 とあります。主の教会はこの世の流れがどれほど激動し、揺れ動いても、そこに主の守りが、主のご支配が確かにあることをさし示しています。教会の歩みは、主が先頭に立って導かれます。私たちはそのような教会に導かれた兄弟姉妹です。教会での信仰者としての最大の関心事は、まず 「主はどのようにお考えか」 ということです、次に 「聖霊は私たちをどのように導かれるか」 ということです。こうして私たちはそれぞれ 「主にどのようにお従いするべきか」 が大きな課題です。神様が私たちに切に願っておられることは、私たちが神に喜ばれるクリスチャンになること、神に喜ばれる教会とされることです。1891年にフレデリック・フランソンが日本に来て以来123年が経過しました。そして同盟教団に属する教会が252教会です。その中の一つが1994年に誕生した北赤羽キリスト教会です。20年の歩みが主によって守られ、導かれてきました。
 この8月には国外宣教50年を記念して世界宣教大会が予定されています。罪に満ちた世界中の人々に福音を語り伝え、キリストの心を 「わが心」 として証していきたいと思います。
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年6月23日 (月)

「わたしの選びの器」

               使徒9章1~19節

 迫害者サウロの上になされた神の大いなるご計画を見たいと思います。
1.神のはかり知れないご配慮
 
クリスチャンを迫害する者の先頭にいたサウロでした。しかし神のご計画は人間の考えの及び難いものでした。福音を弁明できる大伝道者となるように密かに選ばれていました。
 聖書に出てくるいろいろな人物を見るとき、その神のご配慮に驚きます。エジプトで苦しんでいたイスラエルの民の脱出のため指導者とされたモーセ、また一介の羊飼いからイスラエルの王とされるように油注がれたダビデ等です。神のご計画の遂行のために、その人に必要とされる資質、教養、知識等が備えられることに驚きます。神の計り知れないご配慮です。
2.パウロの正直な告白
 
エルサレムから200kmほど離れたダマスコに来ていたサウロの面前に主はご自身の甦りの姿を現されたのです。この決定的瞬間に主は御声をかけられ、「サウロ、サウロなぜわたしを迫害するのか」 と。この時、やっとサウロは我に返ったことでしょう。「主よ。あなたはどなたですか」 と尋ねたとき 「わたしはあなたが迫害しているイエスである」 とのことばに震え上がったのです。「私は以前は神を汚す者であった・・・」 と正直に告白しています。第1テモテ1:13
 3.神との出会いの恵み
 
復活の主との出会いを経験したサウロです。「わたしはあなたが迫害しているイエスである」 とのおことばによって、主はサウロとの一対一の人格的関係に入られたのです。このところでサウロの自己認識の中に神が深く介入されています。暴れ者であったサウロの心に神ご自身についての真理が注ぎ込まれています。もはや頭で考えて信じることではなかったのです。心で信じて、受け取ることのできる神の恵みの真理であります。当時の一流とされた学問、知識、教養に富んでいたサウロです。自分の知識の不完全さ、認識の甘さ、足りなさ、視野の小ささを悟ったことでしょう。人間の常識を超えたところの神の恵みに目が開かれて、福音宣教にいのちをかける生涯へと導かれていくのです。自分こそ神に逆らい、神に背いてきた張本人であることに大きなショックを受けています。彼はこのとき、3日間目が見えない状況になりました。イエス・キリストとの個人的な交わりの中で、「主よあなたは・・・」 と尋ね、キリストの愛と救い、喜びと恵みを宣べ伝える 「選びの器」 として整えられていっています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年6月16日 (月)

「荒野にくだるピリポ」

                使徒8章26~40節

 荒野にくだりなさいとの命令に従ったピリポ、そこに熱心な求道者がいたのです。
1.御霊の主導権
 
神様の切なる願いは一人の魂が確実に救われることです。神様は、このとき一人のエチオピア人を心に留めておられました。そこにピリポを遣わすように計画されたのです。このとき聖霊がピリポに語りかけ、「近寄ってあの馬車と一緒にいきなさい」 と語りかけ、ピリポを力強く押し出しています。一人の魂が心を開き、罪を悔い改め、救われ、受洗に至る心の変化がリアルに書き留められています。一人の魂をも軽く見ることのない神様です。
2.熱心な求道心
 
このエチオピア人は女王カンダケの高官です。女王の財産すべてを管理することを委ねられていました。実に信頼の厚い人でした。男はエチオピアから千数百キロ離れたエルサレムへまことの神を礼拝するために馬車を走らせていました。北海道から九州に至る距離です。また礼拝の帰りにエルサレムで、イザヤ書を買い求め、音読していました。聖書に何が書いてあるのかと探究心がありました。ピリポは 「読んでいるのがわかりますか」 と尋ねました。「導く人がいなければどうしてわかりましょう」 と素直に答えて、ピリポに質問しています。
3.この方を得る喜び
 
エチオピア人は、イザヤの苦難のしもべの箇所を理解できないでおりました。ピリポは、このときこの聖句から救い主イエス・キリストについて宣べ伝えております。このイザヤ53章は旧約聖書の他のどの箇所よりも 「主イエス・キリストの生涯と使命」 が詳しく記されている箇所です。このエチオピア人はみことばを正しく見る目が与えられたのです。イザヤはこの預言を通し、主が残酷な十字架刑に対して口を開かなかった。しかし多くのユダヤ人は、「こんなイエスの時代が来る」 とは考えなかったと預言をしたのです。このエチオピア人は、このみことばによって 「神と自分との関係」 に霊の目が開かれたのです。キリストの苦難が 「自分のためである」 との神の偉大なご真実を悟り、信じることができたのです。心から喜びピリポに応答をしています。この男は 「イエスは主です」 との信仰告白へと導かれ、受洗に至っております。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」 とあります。一人の魂が救われるとき、天の御使いたちに大きな喜びが沸き起こるのです。キリストを得た喜びです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年6月 8日 (日)

「聖なる意欲を」

                  使徒8章14~25節

 サマリヤの人々が神のことばを受け入れ、その時何が起こったのかを見ましょう。
1.魂の新しい出発点
 
ピリポはサマリヤにくだり、みことばを宣べ伝えました。昔からサマリヤ人はユダヤ人と仲が良くありませんでした。旧約時代ゲリジムを聖所としモーセ五書を都合のよいように変え、自分たちこそ正当な神の民と主張。イエス様がここを通られたとき歓迎されませんでした。
 スカルという町で一人の婦人は、イエス様の愛のことばにより、罪を悔い改め、人生の新しい出発点に立ちます。イエス様の救いは、エルサレムからサマリヤにも確かに浸透しました。
2.同じ御霊による教会
 
神の御業がサマリヤに起こり、エルサレム教会からペテロとヨハネが遣わされました。ここで2人は、サマリヤの救われた人々に 「聖霊を受けるように」 祈っています。イエス様の約束の通りに聖霊がユダヤ人だけでなく、異邦人にも働かれることを認めることが出来たのです。人の心を捕らえ信仰の核心へ導く聖霊の力です。教会成長に大きな影響を及ぼす瞬間です。「みことばに堅く立つ」 ことができるよう魂の成長を願い、おごそかに宣教に励んでいます。エルサレムの教会とサマリヤの教会が一つの御霊により、一つの教会とされています。
3.キリストの心を求める
 
聖霊の恵みに理解がなかったサマリヤの人々へ 「聖霊を受けるように」 と彼らの頭に手を置いています。「聖霊を受ける」 とは、キリストの心を心とすることです。キリストの心を心とするとき私たちはしっかり信仰に踏み留まることが出来るのです。ところが、このとき魔術師シモンは自分が手を置いた者が誰でも聖霊を受けることが出来るようにその権威を私にくださいと願ったのです。お金でそのような聖霊の力を手に入れようとしました。自分の権力や名声のために間違った態度で 「神の前に立つ」 ことは実に恐ろしいことです。神の前に真摯な態度がありません。信仰者として、キリストの心を求めることを忘れ去っています。神の恵みの賜物は無代価です。私たちに必要なのは悔いし砕かれた心です。これによって主に喜ばれるクリスチャンとなって成長できるのです。そのためにこの世の富、名声に惑わされるのでない、信仰を働かせ 「聖なる意欲」 に燃やされたいものです。ペテロに叱責された魔術師シモンは 「私のためにも祈ってください」 とこれまでの罪を悔い改めて、神の前に進み出ています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年6月 3日 (火)

「神を前に置く」

                 河野 優牧師

                 詩篇16篇8~11節

1.「何かを前において生きる」 人間
 
今あなたの目の前にあること・ものは何でしょう。あなたを支えているもの、人生の目標、いつも見つめているもの・・・。私たちはいつでも 「何か」 を前に置き、意識をそこに向け、そこに向かって生きている、そんな姿があるのではないでしょうか。
 私たちが自分の目の前に置くものは様々です。しかし誰もが前に置かざるを得ないもの、それは 「死」 です。私たちは死を決して避けることができないものとしてどこかで意識しているはずです。これを解決することは人生の大問題ではないでしょうか。

2.神を前に置く幸い
 
カルヴァンは 「神を前に置く」 ことを 「我々のすべての感覚を(主に)縛られ、捕らわれたままに保つこと」 と言いました。そこから見えてくるものことがあります。
 (1)私が主のものとされている ローマ14:8にあるように、主と共に生き・死ぬ、ここに唯一の慰めが、新たな希望にあふれる人生の出発点があります。
 (2)主こそが唯一の確かな拠り所である 頼るべきお方、留まるべきところはここ以外にはなく、ここにこそ救いがあり、助けがあるのです。助けを求めてさ迷い歩く必要はありません。
 (3)神の摂理の確かさ 神の摂理とは、私の身も心も魂も、神が支え・養い・導いてくださるという信仰による確信です。
 神を前に置く時、そこにある確かな主の御手を味わうのです。

3.死に打ち勝ち、喜び楽しみに溢れて生きる
 吉村昭氏は、ある小説のあとがきで 「三十年前に死への傾斜におびえ続けていた」 と耐えがたく、避けられない死への恐れを述べています。しかし神を前に置く時、死はもはや転がり落ちていく終点ではなく、新しいいのち・栄光への入り口となります。死をも克服する信仰のすばらしい恵みがここにあります。
 神の前には朽ちることのない希望、喜びと楽しみが溢れています。私たちはいつも神を前に置いて主を喜び、賛美し、礼拝する、いのち溢れるすばらしい道を歩んでいます。このような自覚がどれほどあるでしょうか。
  

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2014年5月 | トップページ | 2014年7月 »