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2014年4月

2014年4月28日 (月)

「福音の核心なるキリストの復活」

                   宮川和彦師

                第1コリント15章1~11節

 第1コリント15章は、、使徒パウロによるキリストの復活についての最も古い証言である。ここからキリストの復活の意義について共に学んでいきたい。
1.キリストの復活は、福音の核心である。
 
パウロが伝えた福音の最も大切なこととして4つのことが語られている。1)キリストは私たちの罪のために死なれたこと、2)葬られたこと、3)3日目に甦られたこと、4)ケパをはじめ多くの弟子たちに現われたこと、である。これら4つの中心は復活であり、使徒の働きによると初代教会の伝えた福音とは、キリストの復活であった(使2:32、4;2、33、17:8、23:6)。復活は、また、十字架の死による罪の赦しを確証させるものである(ルカ24:45~48)。復活なくして罪の赦しはないのである(17節)。
2.キリストの復活は、確証された歴史的事実である。
 
キリストの復活については、多くの目撃者証言が存在し、確証された歴史的事実である。反論として挙げられる仮死説、盗難説、幻覚説等はいずれも証明されないのである。
 『キリスト撲滅論』 を書こうとした作者は、米国、欧州、イスラエルの資料を調査するうちにキリストの復活は歴史的事実であると発見し、キリスト者となり、代わりに書いた本が、あの有名な 『ベンハー』 である。実にキリスト教はFiction(作り話)ではなく、Fact(事実)なのである。
3.キリストの復活は、人生の真の希望であり、勝利である
 キリストの復活は、「眠った者の初穂」 である(20節)。すなわちキリスト者も死後、復活するのである。人生は決して墓場で終わるものではない。死は永遠の眠りではない。終わりのラッパとともに死者は朽ちないものに甦るのである(57節)。復活のからだは、現在の肉体とは質的に異なるものであり、新天新地に適合していくものである。病気や罪とは無縁である。まさにキリストの復活こそ、私たちの人生において真の希望であり、勝利である。
  

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2014年4月21日 (月)

「キリストの打ち傷によって」

              第一ペテロ2章21~25節

 イエス様の十字架への道をじかに見たペテロの証言に目を向け黙想しましょう。
1.罪のないキリスト
 
ペテロは 「あなたがたが・・むなしい生き方から購い出されたのは・・傷も汚れもない小羊のようなキリストの尊い血によった・・」(1:18,19)と語ります。このペテロの証言は重要な価値があります。主の弟子ペテロは 「キリストの無罪性」 という圧倒的な真実を確信するに至ったのです。キリストの生涯を貫いて証しされている真実です。
2.罪の身代わりとなって 
 「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました」(21節)。どうしてイエス様が十字架にお架かりになられたのかが見えてきます。「あなたがたのために」 とは 「身代わりに」 との意味です。私たちの罪を、イエス様が代わって背負われたのです。神の怒りとのろいをイエス様の肩の上に移されたのです。罪のないお方だけがおできになる 「購いのわざ」 です。
3.キリストの打ち傷によって
 
「それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、癒されたのです」(24節)。ペテロは、主の弟子としてイエス様の十字架の重みを深く体験して、このように告白をしています。旧約聖書では 「木に架けられたものはのろわれよ」 と申命記にあります。当時これはもっとも無惨な処刑方法でした。ですから旧約聖書を信じるユダヤ人にとって、このことが信仰の妨げでもあったのです。イエス・キリストが担った呪いが自分たちの受けるべきものとの理解に至っていませんでした。ペテロはこの事実こそ私たちに対する 「良き訪れ」 であると語ります。主が十字架にお架かりくださったことで、神ののろいから解放されたのです。主は十字架上で 「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)と叫ばれました。罪を徹底的に憎まれる神のさばきの厳しさを一身に受け止められたイエス様のうめきでした。「イエス・キリストの打ち傷によって癒された」 私たち、神の愛の広さ深さ、高さに心から感謝したいと思います。

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2014年4月14日 (月)

「神に向き合う姿勢」

                 使徒7章1~16節

 ステパノは御霊により、この事実を知ってもらいたいと説教しています。
1.ともに歩まれる神
 
「兄弟たち、父たちよ。聞いてください・・・」 とステパノは叫び、イスラエルの歴史の中に働かれた神を解き明かします。ユダヤ議会には緊張が走りました。しかし彼は御霊により、冷静に落ち着いており、同胞への愛が強く感じられます。
 旧約聖書の族長のアブラハムとヨセフを取り上げ、2人は神に愛された聖徒でした。アブラハムは偶像の町から、神の声に導かれ生まれ故郷を離れています。
 ヨセフは波乱の人生を送った人です。神がヨセフとともに歩まれました。彼は神から不思議な力を与えられて、兄弟たちはそれを憎み、ヨセフをエジプトに売りとばしました。しかし神はヨセフとともにおられ、彼はエジプトで総理大臣となるのです。神がエルサレムだけでなく世界のいたるところでご自身を現わしている証拠なのです。
2.神に向き合う姿勢
 
私たちはどのように神に向き合っているでしょうか。ステパノは自ら信じる神を 「場所に
拘束されない」 「儀式や慣例にも拘束されない」 お方と主張。その現実をアブラハムとヨセフの生涯から立証。その信仰生涯は神の臨在の中に生きるライフスタイルで、一瞬一瞬そこに神がおられると信じる生き方です。アブラハムの生まれ故郷ウルは偶像の町で、その環境の中アブラハムは神の声を聴き、どこに行くのかを知らずに旅立ちます。神に信頼し、神と正しく向き合っています。
 ヨセフは艱難の人でした。ある時、畑でヨセフの束の回りに兄弟たちの束が来てお辞儀をする夢を見ます。もう一つ、太陽と月と11の星がヨセフに向かってふし拝んでいる夢でした。ここに神様の不思議なご摂理があるとは誰も知りませんでした。ヨセフはエジプトで総理大臣とされ、ヤコブとその子どもたちは飢饉に苦しみエジプトに下ってきたのです。こうしてヨセフの夢が現実となり、「神がいのちを救うために、あなたがたより先にわたしを遣わされた」(創45:4)と証しします。世界中、どこでもご自身を現わしてくださる神と私たちはどのように向き合っているでしょう。神は私たちの心を探り窮めるお方です。

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2014年4月 8日 (火)

「キリストのかおりを」

               使徒6章8~15節

 初代教会の執事の一人ステパノの人柄と信仰に学びましょう。
1.ステパノの恵みと力
 
使徒の働きの著者ルカは、選ばれた教会の執事の筆頭格にステパノを挙げています。ステパノは 「冠」 とのギリシャ語の意味です。その名の通りキリスト教史上初めての殉教者でした。彼は御霊により恵みと力に満ちていたのです。恵みは柔和で、憐れみ深い、信仰的に謙遜さを身につけていた姿です。神の真理に堅く立っており、主の御旨にはどこまでも力強く応答して、神の前に従順に従っていました。
2.ステパノに与えられた神の知恵
 
ステパノは知恵と御霊によって語っていたので、人々はそれに対抗できませんでした。ステパノの顔は御使いの顔のように映ったのです。その生き様の中に主イエスの御姿をみます。ステパノの人柄はキリストに似る者とされた信仰者の姿です。聖書は私たちも御霊によって歩むなら、心の内側にキリストの品性が培われると語ります。
3.ステパノの信仰
 
信仰と聖霊に満たされたステパノは、少しも揺れ動かされていません。天地を支配している全能の神が味方であるとのステパノの確かな信仰が見えます。信仰とは望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるとあります。
 石が投げつけられました。荒れ狂う群集もいなごのように見えたでしょう。
 「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っているのが見える」 と証言。このような苦しみの中からステパノは神に背く人々を憐れみ、「主よ。どうぞこの罪を彼らに負わせないでください」 と祈りつつ、息を引き取っているのです。こうしてステパノは初代教会で初めての殉教者となったのです。これが初代教会の分岐点です。
 いろいろな知者、学者、長老、群集を前に公然と語り続けたステパノでした。この日本で証しするように導かれている私たちです。いざというとき、聖霊なる神様が語るべきことを教えてくださるのです。「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです」 第2コリント2章15節

 

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2014年4月 2日 (水)

「主の教会に仕える」

               使徒6章1~7節

 地上の教会は、困難をも聖霊によって励まされ真摯に立ち向かっています。
1.神の前の優先順位
 
初代教会の歩みの中に苦情が出てきたとき、12使徒は弟子たちを集め解決に乗り出しました。「神のことばが後回しにされない」 ようにと最善の注意を払っているのです。
「祈りとみことばの奉仕」 のため目の前の問題を客観的に把握し、霊的なことを優先しています。食卓のことに仕えるため、御霊と知恵とに満ちた7人を選びました。教会内で表面に表れた苦情を疎かにせず、御霊によって解決を求めています。
2.教会に働かれる御霊
 
「教会」 はキリストのからだです。私たちの体のことを考えてみてもそのことが良く理解できます。聖書は、教会もそれと同じであると語ります。教会に集まっておられる一人一人、それぞれ違った賜物を頂いて、ともに主のために用いようと励んでいます。「食卓のことに仕える奉仕」 があり、「みことばに仕える奉仕」 があります。どちらも大切な教会の働きであります。どちらに奉仕する方々も神は 「御霊に満たされた霊的な人」 を必要としているのです。「神のみことばが後回しにされない」 との教会の変わらない信仰の姿勢が貫かれるため、聖霊ご自身が教会を導かれるのです。
3.神のみことばの最優先 
 私たちは今朝、「教会の本来の姿」 を見ております。教会では、主の日の礼拝は私たちのすべての生活の始まりです。礼拝なしの生活はあり得ないのです。教会の中にみことばを高く掲げようとの熱心を豊かに培っていきたいと願わされます。みことばと礼拝を第一に重んじる敬虔さをもって神の前を歩んでいきたいと思います。それが教会の諸活動を導く原動力となるのです。みことばに傾聴することの大切さを覚えます。
 パウロはエペソを去ろうとしていた時、エペソの長老たちを呼び寄せ、説教して、「みことばはあなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができる」 と励ましました。20年間の歩みが主に導かれた私たちも、「みことばが後回しにされないよう」 聖霊の励ましの中を着実に歩んで行きましょう。

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