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2014年3月

2014年3月23日 (日)

「黙ること」

                井上慎治神学生

                ヨブ記40章1~5節

1.ツアデイーク(義) と ラーシャー(悪)
 
「義人」 と 「悪しき者」。 洪水物語(創7章)やソドムとゴモラ物語(創18章)などの神の審判に登場する言葉。神の目にツアデイークである者は救われる。ラーシャーである者は滅ぼされる。聖書の中でツアデイークととはっきり言われているのはノアだけ。義人は非常に少ない。
2.神の目から見たヨブの評価(1:1~8)
 
「潔白で正しい」 と訳されているが、厳密には誠実(ターム)でまっすぐ(ヤーシャール)。神はヨブの誠実でまっすぐなところを評価、ツアデイークとは言われていない。ヨブは神の前に決定的な正しい者、「義人」 ではなかった。
3.ヨブの言葉の変遷
 
災いによって息子、娘と財産の全てを失った時、ヨブは 「主は与え、主は取られる」 と主を賛美した(1:21)。しかし、自分の身に災いが及ぶとトーンダウン(2:10)。自分の生まれた日を呪いはじめる(3:1)。友人たちとの議論では 「神を訴えることは出来ない」 と控えめだった(9:32)が、徐々に神と論じ合うことを求めはじめ(10:1,2)、自分がツアデイーク(義人)と断言するようになり(13:15,18)、神と自分を対等に置くようになった。神を賛美したヨブの姿はもはや無い。
4.ヨブの義の基準
 
ヨブの目から見た神の裁きの基準は行いにあった。29~39章。ヨブの正しい行い、社会的弱者への援助を列挙する。
5.神の義の基準、口を閉ざしたヨブ
 
ヨブのまっすぐさに隠された思いをあぶり出すために、神はサタンを通して災いを下した。その結果ヨブの心の真実が露わにされ、最終的に神と自分を対等に置き、自分を義とし、神を悪とした(40:8)。神を裁くほどの高慢こそが、ヨブの心の奥底に隠され、神が問題とした思い、ヨブの誠実でまっすぐな性質は、自分の正しい行いを根拠にツアデイークとしたことに現われ、自分の信念を曲げない頑なさでもあった。神は行いと同時に心の状態をさばきの基準とする。神はヨブの隠された思いとそこから生まれる言葉に怒りを発した(41:18)。神の燃える怒りに触れ、ヨブは黙り(40:3-5)、神を知らなかったと後悔(42:5,6)。
 最後に神が人の心を問題としているのであれば、信仰者はまず黙って、自分の心を見つめ直すことが大切、ヨブの災いは彼が受けるべき当然の報いであったが、同時にヨブの心の中の高慢な思いをあぶりだすためであった。ヨブは頑なであったが、神と相見えるという決定的なことを通して、がらりと変えられた。一番救いようがないのは適当にわかったようなことを言って、何も変わらない人。神に対して隠された思いがあるのではないかと、柔軟さと聞く耳を持ち、自分の心に耳を傾けること、その果てに、人間の限界を超えた神との出会いがある。
 
 
 

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2014年3月17日 (月)

「生ける神を求めて」

                 山村諭師

                詩篇42篇

 詩人は魂の渇きを覚えています。それは鹿が谷川の流れを慕いあえぐような渇きです。そして詩人は渇く魂に語りかけます。
 「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れているのか。」と。神の臨在の手応えを持てない時、人の魂は不安に陥り、うなだれ、思い乱れます。
 詩人は 「おまえの神はどこにいるのか」 という声のただ中に、一日中おかれています。骨骨が打ち砕かれるほどに、激しくそしられ、昼も夜も涙を流しています。「ほんとうに神はいるのか」 「神など信じて何になるのか」 そういう声は、至る所で、私たちの魂に突きつけられているでしょう。でも信仰者は、その深みにおいて、生ける神にまさる力は無いと知っています。
 信仰者であっても、魂がむき出しになった時、弱さをさらけ出すことがあるかもしれません。でも魂は、慕いあえぐべきお方を知っています。
 詩人は、「神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。」 と魂に語ります。うなだれ、思い乱れる、その中でも、「なおも」 神をほめたたえると言うのです。神を礼拝するものとして、主にのみ期待して生きようとする姿勢があります。分からないこと、不安なことは確かにあるのだけれど、神さまに向かっていけば、安心だと知っているのです。
 主イエスは言われました。
 「あなたがたは、世にあっては艱難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(ヨハネ16:33)。思い乱れ、うなだれる経験をしても、なお、神を求め、ほめたたえる。生ける神を慕い続けて生きる、そこには勇敢な生き方があります。

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2014年3月10日 (月)

「驚きのある人生への招待」

                吉枝隆邦師

               ヨハネ4章1~42節

 この女性の名前は記録されていませんが、出来事を彼女自身の言葉で話させたらこのようになるでしょう。
 「私の名前なんかどうでもいいのよ。それよりも聞いて欲しいのは驚きの連続だったあの日のことよ。いつものとおりみんなが来ない時刻を見計らって水がめを担いで村はずれの井戸まで行ったわ。そしたら井戸端に男がいるじゃない。これが第一の驚きよ。・・・しかもその人の態度と言うことが驚きの連続だったのよ。あたしの夫のことを言われたのは大きな驚きだったわ。私が過去にしてきたことを全部言い当てたんだもの。てっきりこの方は預言者だと思って宗教的な質問をしたら話題が違うと叱りもしないで真っ直ぐに答えてくれたのも驚きだったわ。最高に驚いたのはあたしが、やがていつかメシヤが来られることは知っています、と言ったら 「わたしがそのメシヤです」 と言ったことです。そうだったらあたし一人でこの人と話していたんじゃいけない、みんなにも知らせなくちゃあ、水がめを置いて村に駆け戻りました。人を避けていたあたしがこんな行動をとっているのが驚きでした。あたしの驚きはまだまだ続きました。村のみんながその方に会い、話を聞いてメシヤを信じてあたしとともに同じ喜びに満ちた日々を送っているのが驚きに満ちた喜びです」
 私たちのすべきことは何でしょうか。日常に驚くことがあまりに少ないのを驚くべきなのかもしれません。世界の出来事を見聞きして驚いていますか。心が痛んでいますか。イエス様の心は彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを御覧になってズキズキ痛んでいました。あなたの心はどうですか。聖書に教えられる霊的現実を見る目と感動する心を失わずに驚くことを続けていきたい。

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2014年3月 3日 (月)

「主を待ち望む者は」

                  野寺博文師

                 イザヤ40章

 日本の敗戦から69年目になります。「荒野の40年」 「バビロン捕囚の70年」 を経た教訓が何であるのかを共に学び、日本の教会のかつての罪を悔い改め、新たに再出発をしたいと思います。
 罪を犯し、70年間の捕囚を終えた彼らに救いをもたらすのは救い主イエス様です。救い主が来ると、アッシリアの如き高慢な 「すべての山や丘は低く」 されて謙ります。ユダのように打ちのめされている 「すべての谷」 は 「埋め立てられ」、救い主の前には 「すべての人は草」 で強大なアッシリアと雖も 「その栄光は、みな野の花のよう」 なものにすぎません。「主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ」 のです。結局 「永遠に立つ」 のは 「神のことば」 以外にはないのです。それで預言者は 「神のことば」 を無視して滅びたユダの町々に向かって、神に向かって叫べと呼びかけます。
 ユダに欠けていたことは暗い絶望の中で 「主を待つ」 ということでした。神様を信頼できないから、神様の言うことをききません。勝手に偶像を拝み、自分の判断、自分の力で自分勝手に生きたのです。神への不従順は神への不信仰によるのです。
 バビロン捕囚70年の教訓の結論は神様を 「見よ」、そして 「待ち望め」 ということです。主を待ち望む者は倒れません。神様は万軍の主、地の果てまで創造した方、永遠に満ちておられる方です。このいのちに満ちた神様から離れる人は滅びるのです。「主を待ち望む者は鷲のように翼をかって上ることができる。」 鷲は世界最強の動物として聖書に登場します。主を待ち望む者は、世界最強の人生を生きることが出来るのです。地上の迫害をものともせずに、王のように自由に天高く生き、神様にのみ信頼し、神様のみこころを大胆に行うのです。ここに、戦時下の呪いを打ち破り、罪を悔い改めて生きる、新しく生まれ変わった日本人キリスト者の姿があります。
 そして主を待ち望み、神のみこころだけを大胆に行ったのが朱基徹牧師です。日本の神社参拝の強制に 「一死覚悟」 でひるまずに抵抗し、神様のみこころを全うしました。
 日本の教会はこれと全く正反対の状態でした。私たちは殉教者を蔑視した罪責を悔い改め、その信仰に謙虚に学び、鷲のように主のみこころを行う者となりましょう。

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