2012年5月21日 (月)

「インマヌエル」

                   増田満喜子

                マルコ4章35~41節

 母の日おめでとうございます。母を与えてくださった主に感謝し、また母としてして立っておられる皆様に敬意を表します。母としての務めの中、時には孤独を覚え、葛藤し、涙することもあるでしょう。その思いを知ってくださっている主が、みなさんをみことばによって強め、励まし、支えてくださいますようにお祈りいたします。

 イエス様の御声に従い舟を出した弟子たちは、熟練した漁師が恐怖を覚えるほどの嵐に見舞われます。しかしその中でイエス様は眠っておられました。そんなイエス様に弟子たちは 「私たちが溺れて死にそうでも何とも思わないのですか!?」 と非難を込めて叫ぶのです。弟子たちはすべてを支配しておられるイエス様が一緒におられるのに、そのことを忘れてしまっていたのです。イエス様は眠ったふりをしておられたのではなく、真の神様の平安の中で休んでおられたのです。主に信頼するとき神様が与えてくださるのは嵐の中でも堂々と神に信頼して歩める力としての平安です。

 39節に風と湖をお叱りになり、嵐を鎮めてくださる主の姿があります。イエス様は私たちを取り囲む暗闇を叱りつけてくださり、そして平安を取り戻すように、と私たちに語られるのです。イエス様に従って湖に乗り出さなかったら、舟は波に呑まれるようなこともなかったでしょう。しかし、同時に、主に従わなければ天地万物を支配し、愛と平安に満ちた主と出会うこともないのです。

 イエス様はこの嵐の中で舟のともの方で眠っておられました。この場所は舟が沈没するとき、最初に沈む危険な場所です。主はこの危険な場所をしっかりと守ってくださっていたのです。インマヌエルとは 「神は私たちと共におられる」 という意味です。神が私と共におられる、という信仰は 「私も主よ、あなたと共にあります。」 という決意によって完成します。今日も私たちの嵐を鎮め、真の平安の中に導いてくださる主に信頼し、主と共に神の国をめざして歩ませていただきましょう。

 

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2012年5月14日 (月)

「覚える」

                     増田満喜子

            詩篇78篇1~8節(民数記11章)

1.神の怒りの理由

 イスラエルの民は今までも何度もつぶやいてきましたが、この時神は怒りを燃やされます。それは第一に彼らのつぶやきが不信仰からのものだったからです。神のみわざをあれだけ体験しておきながら、その神に信頼しようとしない民の不信仰でした。そして第二に彼らはエジプトを恋い慕い、エジプトに帰ることを望みました。彼らは過去に執着したのです。罪の中がどんなに恐怖で窮屈であったか、そして神様の愛を知った時の喜びを、私たちもまた忘れていないでしょうか。

2.モーセの不平

 民の不平はモーセを疲れさせます。彼はその苦しみを神様の前にもっていきました。これがモーセの素晴らしい点です。彼は自分の死を願うほどくたくたに疲れ切っていました。モーセは責任感のあるリーダーです。母が子を育てるように、神様から任された民を導かなくてはならないと理解していました。しかし人の長所は短所にもなります。モーセは神様から任されていないところまでも抱え込み、疲れてしまっていたのでした。そんなモーセに主は23節で主を認めるように語られます。

 神様は私たちの不平の原因を知っておられます。民数記を見ると民の不平不満だらけです。神のみわざを体験し、恵みを受けた次の瞬間には主を忘れつぶやく、その姿は私たちの姿です。

3.主を覚える

 今朝、詩篇78:1~8を見ましたが、神様のみわざを忘れず、心頑なで心定まらない者にならず、不忠実な者とならないために私たちはどうしたらよいのでしょう。イスラエルの民の問題は42節 「彼らは神の力をも神が敵から購い出してくださった日をも、覚えてはいなかった」 ことです。神の恵みを忘れると感謝も喜びも消え去ります。「主を覚える」 これは重要な信仰生活の鍵です。今朝私たちは主の十字架と復活を覚えるために主イエスにより定められた聖餐式に預かります。主イエスのいのちが捧げられるほど尊いあなたのいのちです。その尊いいのちをいただいている私たちは今、そのキリストのいのちにふさわしく歩ませていただきましょう。

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2012年5月 7日 (月)

「信仰といのちの祝福」

                     へブル10章22~27節

 みことばにより、祈りのうちに将来を展望する恵みを考えましょう。

1.みことばの視点

 この時代ローマ帝国では皇帝礼拝が浸透し、クリスチャンはそれに抵抗して迫害が起こりました。その混乱の中 「信仰をもって、真心から神に・・」 とあります。日本の現実も 「みことばに照らして」 祈る大切さを覚えます。

2.主にある謙遜と柔和

 神の一方的な憐れみにより罪から救われ 「神の子」 とされた私たちは、自分の誇りや自己中心に変わる 「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」 という 「御霊の実」 を結ぶ歩みが約束されています。

 人間の傲慢な心をへりくだらせるのは 「神の寛容」 です。キリストの 「謙遜と柔和」 の前に私たちは、心砕かれるのです。

3.いのちに至る道

 「私たちは心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、・・」 と言われる生き方は、「キリストに倣う生き方」、「キリストの御足の跡を辿る生き方」 です。主は謙遜と柔和をもって仕えてくださいました。キリストの励ましを受け、私たちも謙遜に 「神と人とに仕え」 たいものです。真心から神に近づき、約束された方に目を向けるとき、激動の渦の中、先を見通すことが出来ることでしょう。こうしてどんな時代にも、神様は、「教会の群れ」 をしっかり導かれます。「主を仰ぎ見るとき、、私たちは輝く」 のです。

 主イエスが再び来られるこの日こそ、私たちが約束のものを受け取ることの出来るときです。このとき、キリストにどのようにお従いし続けてきたのかが問われます。「主にある交わり」 を保ち続けるように 「ともに集まり、主を礼拝し、励まし合う」 ようにと勧めています。「真心から神に信頼し」 地上の荒波を乗り越えたいと思います。迫害と中傷、試練にクリスチャンが堅く立つことができたのは、「見るべきお方」 にしっかり目が向けられていたからです。祈りつつ 「信仰の確信」 に留まっていきましょう。

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2012年4月30日 (月)

「約束されるお方」

                へブル10章22~25節

 どうしたらこの時代に 「希望の光」 を見ることができるでしょうか。

1.新しい恵みの時代

 この手紙は紀元1世紀ごろ試練の中で苦しんでいたクリスチャンに書き送られた 「勧めのことば」 です。ユダヤ教の古い時代は過ぎ去りました。イエス様が十字架の上で 「犠牲」 となられたことが、私たちにとって大きな恵みです。十字架の購いにより、「罪の束縛」 から解放されるのです。

2.罪からの解放

 「心に血の注ぎを受け、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われた・・」 とあります。キリストの救いを信じ受け入れるとき、私たちは 「義と認められ」 ます。十字架の圧倒的な愛に押し出され、喜んで主に仕えることができます。また、この世の虚しい生き方から切り離され、充実した信仰に導かれます。最後に 「死の恐怖」 から解放されます。

3.神のみ声に応答

 罪を赦され、義とされ、喜んで主に仕える 「愛の人」 となるため、どうしたら 「まことの神」 を深く知ることができるでしょうか。日頃の信仰生活を 「みことばの約束」 に照らし、神に真理、ご真実を見出すのです。

 ニコデモがイエス様に尋ねました。彼は律法学者でしたが、「人間が新しく生まれ変わる」 ことが理解できず、「年をとってもう1度母の胎に入って・・・」 と考えました。イエス様は 「人は水と御霊によらなければ、神の国を見ることができない」 と語ります。みことばに従うとき、「古い自分」 を捨て、「キリストに生かされ」 ます。ニコデモもこの恵みを見出しました。「みことばの約束」 をしっかり自分に語られている 「みことば」 であると信じるとき、「神を知る」 のです。多くの人々は自分の力を頼り、自分を誇って、この世の風潮の中で 「信仰なんて・・」 と敬遠し、神に信頼しません。

 私たちは、「かの日」 と言われる終末まで忍耐をもって、信仰を保ち続け、「みことばの約束」 に堅く立ち続けたいと思います。

 

 

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2012年4月22日 (日)

「再出発」

                 増田満喜子

              ヨハネ21章15~25節

 復活された主は弟子たちにガリラヤ湖に向かうように指示されます。その指示に従った弟子たちはガリラヤ湖に漁に向かいますが、魚が獲れません。しかし岸辺に立つ人の指示に従うと、153匹もの魚が網にかかるのです。そのとき弟子たちは、3年前のイエス様に召し出されたあの時を思い出し、岸辺に立つ方がイエス様であると気付くのです。なぜ主はガリラヤに向かうように指示をされたのでしょう。ガリラヤがイエス様との出会いの場、そして彼らが主に従って行った出発の地だったからです。

1.弱さを知ったペテロ

 ペテロはすでに復活の主にお会いしていましたが、彼は主を裏切った罪の意識に捉われていました。自他ともに認める12弟子のリーダー、イエス様を愛する思いは誰にも負けないという自負。しかしそんな自信が崩れ去ったとき、彼は自分の弱さを知りました。「俺はもう駄目だ。」 悲しみの中に沈むそんなペテロに主は向き合います。

2.あなたはわたしを愛するか

「あなたはわたしを愛するか」 と3度問う中で、イエス様を否んだあのペテロの言葉を1回1回帳消しにするように、主はペテロに真の愛の告白を求めます。ペテロは心を痛めつつ、誠実に答えます。純粋にイエス様を愛する愛が動機だったか、自己満足、自己顕示欲のためではなかったのか・・・主の前に私たちも問い直されます。

3.傷の癒し

 船は嵐の中でも錨を下ろすなら、流されることはありません。主は私たちの心の傷にあえて触れ、その傷を主に信頼する錨、謙遜の錨としてくださるのです。時には古傷が痛むこともあるでしょう。しかし、その度に私たちは、主イエス様と向き合うのです。「私は大丈夫」 そんな高慢をもう1度砕いていただき、「こんな私だからこそイエス様の十字架が必要なのです」 と謙遜に主の前に出させていただきましょう。

4.あなたはわたしに従いなさい

 主はガリラヤでもう1度弟子たちを信仰と召命の原点に立ち返らせます。そして他の人が気になるペテロに 「他の人は関係ない、あなたがわたしに従うかどうかだ」 と厳しく語られました。あなたと主との関係を見直し、ここから再出発をして参りましょう。

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2012年4月16日 (月)

「復活の主にお会いして」

                 増田満喜子

                 第1コリント15章1~11節

 イースターおめでとうございます。悲しみが喜びに変えられた朝です。

1.福音

 パウロは 「福音」 とは何か、確認します。 「福音」 をしっかりと持っているなら、私たちは救われるのです。福音の中心はイエス様の十字架と復活です。神経を抜いた歯を 「死んだ歯」 というそうです。神経がないので虫歯が広がっても、痛みを感じず、気付きません。一見生きているように見えても実は死んでいる、それが私たちの心です。そのような自らの罪にも気付かない私たちのために、主は十字架に架かり、罪の報酬である死にまで従われました。そして私たちが決して打ち勝つことのできない死に勝利してくださったのです。このイエス様の復活により救いの完成がなされ、主を信じる者への永遠のいのちの保証とイエス様が神であることを証明してくださいました。

2.復活の主に出会って

 しかし、それだけではありません。復活の主にお会いしたとき、私たちは変えられるのです。5節以降に復活の主にお会いした人物が列挙されています。その最後にパウロは自分自身を挙げます。クリスチャンを迫害していた過去はパウロにとって隠したい、忘れたい過去です。使徒と呼ばれる資格のない、できそこないの人間失格のような自分、けれどもそんな私にも復活の主は出会ってくださった。すべてをひっくり返して、こんな私の人生を新しいいのちに溢れたものとしてくださった、と感謝に溢れて告白するのです。

3.勝利

 イエス様は人類最大の問題である死に勝利されたのです。最大の問題に勝利してくださったのですから、すべての問題に対して主は勝利されたのです。このすでに勝利をおさめてくださった主があなたとともにおられます。 「しかし、神に感謝すべきです。神は私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」(57) あなたと共におられる主はあなたを作り変えることがおできになり、絶望を希望に、弱い者を主の勇者に作り変えることがおできになる方です。「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。」(10)

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2012年4月 8日 (日)

「尊い愛の犠牲」

           ピリピ2章6~8節 マルコ15章22~34節

 宣教18周年の朝、そして 「受難週の朝」 の礼拝を迎えております。

1.十字架の犠牲

 キリストが十字架上で死なれたことは、聖書の中心的教えです。私たちは、この 「キリストの十字架」 を宣べ伝えます。十字架によって私たちの罪が赦され、神の子とされ、「永遠のいのち」 が与えられました。この私のため、あなたのためキリストは、「実に十字架の死にまで従われた」 のです。

2.十字架による和解

 「十字架の血によって、・・・ご自分と和解させてくださった」 と聖書は語ります。神と人との間に超えることのできない溝があり、そこにイエス様の十字架が立っています。神との和解の十字架です。神に背き、神に敵対していた私たちに 「神との平和」 を実現されたイエス様に感謝します。

3.十字架のことば

 「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力です。」(Ⅰコリント1:18) 神が人となり、罪人を救うために十字架についてくださった。これが十字架のことばです。福音です。このことばは滅びに至る人々には愚かに聞こえます。しかし救いを受ける人々には神の力となります。それは人間の罪を赦し、「まことの希望」 を与えます。ユダヤ人指導者たちは、「十字架からおりるがよい。そうすれば信じよう。」 と叫んでいます。神を恐れない傲慢な人類のために、神は御ひとり子イエス様の十字架の死をもって、私たちを神に立ち返らせ、神の子とされたのです。厳しい困難な日本の現状です。

 北赤羽キリスト教会が宣教18周年を迎えた今、私たちは 「十字架につけられたイエス・キリスト」 を力強く宣べ伝える者でありたいと思うのです。

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2012年4月 5日 (木)

「見ないで信じるなんてできますか」

                 吉枝 隆邦

                 ヨハネの福音書20:24-31

 ここに 「信じる」 と7回出てくる。ヨハネの福音書全体には99回使われているのに、「信じる」 という言葉は誤解されていることが多い。私たちは毎日 「信じる」 ということを使って生きていて信じないではいっときも生きられない。聖書では 「信じる」 をどのように教えているか。

1.ヨハネ20:29 信じることは見ることによらない

 イエス様の言葉は私たちの常識に反対している。実際、私たちは見ているものについては 「信じますか?」 とは聞かない。見ずに信じるのが当たり前だ。電車に乗るにも行き先の駅に行くかどうか駅員に聞いて確かめたら乗るべきであって、その電車が行こうとする駅に着いたのを見てから乗ることはできない。駅員に聞いた答えを信じて乗るほかない。

2.ローマ10:17 信じることは聞くことによっている

 日本人の先祖伝来の信仰観には聞くということが欠けている。明石の柿本人麻呂を祀った人丸神社の話ーご利益が防火と安産、なぜ? 人丸だから火止まる、伸ばせば人うまる。笑えるけど寂しい。多くの神々は何も語っていないのだから聞きようもないわけだが。天地の創造者である神は聖書を通して語っている。聞くべきである。聖書が教えていることの中心は救い主イエス・キリストであり、その福音である。だから毎日聖書を読むべきである。

3.ヨハネ11:40 信じるなら見るようになる

 必ず見るのだ。約束なさった方は真実であり、愛のお方であるから、約束は必ず守られる。最初には経験していないけれど、聖書の言葉を聞いて信じるならその約束が真実だったと経験できる。イエス・キリストを救い主と信じるならその人の人生が新しく変えられるのを経験できる。

                

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2012年3月25日 (日)

「真の愛に応えて」

                     増田 満喜子

                   ヨハネ13章1~20節

1.残るところなく

 主イエス様は刻々と十字架の苦しみが迫っていることをご存知でした。また、この席で弟子たちは誰が一番偉いかという愚かな議論を繰り広げ、自己中心の罪をあらわにしていました。そしてこの時すでにイスカリオテのユダの懐にはイエス様を裏切った銀貨30枚があり、また主も弟子たちがこの後、自分を裏切って行くことをご存知でした。困難、苦しみを前にしたとき、人は自己中心の本心が現われます。しかし主イエス様は違った。死を目前にしても、人の罪、裏切りを知ってもなお、変わることなく、さらに豊かに、終わりまで残るところなく、愛を現わされたのです。

2.しもべとなって

 愚かな弟子たちの議論の中、静かに主が立ち上がります。その瞬間、弟子たちはイエス様がおられたことに気付きハッとしたことでしょう。しかしイエス様はただ黙って弟子たちの足を洗い出したのです。奴隷の中の奴隷、最も身分の低い者が高位の者にする行為をイエス様が弟子にされたのです。主はこの洗足を通して自分が一番だ!と自己主張し、他を排除するのではなく、「仕え合うこと」 の模範を示されました。(14,15節)

3.神にゆだねる

 また、もう一つの洗足の意味は 「あなたの歩みを、人生を主にまかせよ」 ということです。ペテロは驚きと戸惑いの中、「何故ですか!?」 と洗足を拒否します。しかし、イエス様は 「わたしがしていることは、今はあなたには分からないが、後で分かるようになります。」(7節) と言われました。またそれでもなお拒むペテロに 「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もない」 と言われます。つまり、足を洗うという行為で主が示す 「罪の償い」 は人によるのではなく、神様が主導権を持つということです。神の方法で、神によってのみ罪が赦されます。ですから、私たちは今すべてを理解しているわけではない、時に疑いが起こり、迷いが起こる。しかし、「今、あなたの足を、歩みをわたしにゆだねなさい。後になってわかるようになる。」 と語ってくださるイエス様に信頼して足を、私たちの人生の歩みをお任せしましょう。

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2012年3月19日 (月)

「キリストの愛ゆえに」

                   ピリピ1章13~20節

 私たちは、キリストの愛によって大胆に 「主を証し」 できます。

1.宣べ伝える心

 パウロは、ローマでの投獄が 「福音の前進」 に繋がったと証しします。ピリピ教会の兄弟姉妹たちは、投獄という困難な中、「福音にいのちをかけた」 パウロに強く感動しました。しかし、すべてが順調ではありませんでした。パウロの投獄のことから、一方は、「純粋な動機」 から愛をもって、恐れることなく、神のことばを語り続け、それはパウロにとって大きな励ましでした。もう一方は、不純な動機から、「キリストを宣べ伝えていた」 のです。パウロは、「それをも喜ぶ」 と証しします。どちらも 「キリストが宣べ伝えられている」 からです。それほど 「キリストの愛」 に燃える寛容な人でした。

 どんなときにも神を信頼し、滅び行く人々に熱心にみことば語ったのです。「パウロの心」は、いつも自らの身体をもって、「キリストが崇められ、キリストが宣べ伝えられている」 そのことで、「主への感謝」 が溢れています。

2.宣べ伝える喜び

 パウロは当時の混乱した社会環境の中で、「主と出会う」 体験に至りました。自分が出会ったお方が、復活された主イエス様であることを信じています。「私があなた方に最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目に甦られたこと、・・」(1コリント15:3,4) これがパウロの喜びであり、私たちの喜びです。イエス様の 「愛、赦しの愛」 によって生かされています。

 東日本大震災の苦しみと悲しみから1年が過ぎ去りました。その中で、私たちは 「愛と信仰と祈りの絆」 により、ともに寄り添って生きていきたいと思います。パウロが苦難の中で忍耐をもってイエス・キリストを宣べ伝えた生き方に倣い、私たちも 「神の栄光を拝する」 者とならせていただきたいと思います。

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