2012年1月23日 (月)

「あなたを祝福される神様」

               民数記No.1 民数記6章23~27節

                    増田満喜子

 民数記はなぜイスラエルの民が40年間も荒野をさまよったのかを説明する書物でもあります。私たちは民数記を通して、自分は主の前にどのように在るべきか教えられていきたいと思います。

1.秩序 

 律法の教育がなされた後、モーセが行ったことは人口調査でした。彼らの周囲には多くの敵があり軍隊を作る必要がありました。数えてみると20歳以上で軍務につくことができる男性は603,550人。この数字から考えるとおそらくイスラエル全体の人口は200万人以上いたことになります。このような大集団が神様の命令に従い、秩序を持ち旅を続け、秩序を持って宿営し、秩序を持って主を礼拝したのです。神様は秩序を大切にされます。私たちもまた、自分の好き勝手に歩むのではなく、主の用意してくださった秩序を大切に日々を歩み、秩序を持って主の前に出ることが求められています。

2.祝福

 これらの秩序が整えられた後に祝祷が祈られます。神様が私たちに与えてくださっているのは 「祝福」 です。「主が」 3回繰り返されますが、三位一体の神が強調されています。また24、25、26節と次第に単語数が増えていきますが、これは三位一体の神様の祝福が強く、広く、深く、大きくなっているという意味です。第1の祝福は守りです。主は私たちが気付かないところでもこの守りの祝福を注ぎ続けておられます。第2の祝福は恵みです。神様はご自身の顔を照らし、ご自身を私たちに知らせてくださいますから私たちは主を知ることができます。イエス様の十字架によって私たちは神様の恵みをいただくのです。第3の祝福は祝福の最高峰である平安です。欠けたところのない、消えることのない神様の臨在の中にある完全な平安です。この祝福は主イエス様を心に受け入れた者だけが持つことのできる祝福です。なぜなら主イエス様の十字架による赦しと救いが完全な平安の根拠だからです。

3.祝福の管として

 この平安を私たちは一人占めしてはいけません。主は23節で 「祝福して祈りなさい」 と言われました。繰り返し祈り続け、主の祭司として私たちは神様からの祝福を家族、友人知人に、そして隣人にお届けする者とさせていただきたいのです。

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2012年1月17日 (火)

「新しい人として」

                  増田満喜子

                   第2コリント5章14~17節

 昨年は私たちにとって忘れることのできない一年でありました。「生きている」 のではなく、「生かされて」 今ここに在ることを覚えます。

 17節に 「新しい」 と出てきます。新しいことは嬉しいことです。 「新しい」 そこには昔から引きずっていたものが切断され、希望、期待があります。でも私たちの目に見える物の 「新しいもの」 は時間が経てば 「中古品」 「旧作」 です。しかし17節の 「新しくなりました」 とは完了形で書かれており、私たちはキリストによって新しくされ、その結果はずっと今も継続している、という意味なのです。私たちはキリストにあって今もなお新しくされている者です。

 では 「キリストのうちにあるなら」 とはどういうことでしょうか。それは悔い改めと、主の赦しの宣言の中に生きるということです。ある先生が 「クリスチャンの人生は 『あの頃は良かった』 という歩みであってはならない。今、この瞬間が一番幸せと言える人生でなければならない。なぜなら私たちは、日々キリストによって新しくされる歩みだから」 とおっしゃっていました。同じような失敗を繰り返している私たち。しかしそんな私のために命を投げ出し、私たちを滅びから救ってくださったイエス・キリストがおられます。私たちは主の前に悔い改めを持って出ていき、主の十字架による赦しをいただく時に、日々新しくされた者として歩むことができます。

 イエス様と共にあるならば生き方が変わります。価値観が変わります。神様からの目線を持って周囲を見ることができ、そして神様からの目線で自分をも見ることができ、愛することができるようになるのです。そして主の愛を知ったなら、愛されている喜びと、自由の中で従う者とされ、そこには真の満足、感謝、幸せがあります。「この私を愛してくださった主のために生きる」 という揺るがない生きる目的ができます。そしてその目的がありますから、その人の生き方はぶれません。充実と喜びが溢れます。「あなたはあなたの人生をどのように歩んだか?」 と主から問われる時、私たちはどのように答えるでしょうか。今、主から委ねられたものを受け取り、新しい人として歩みましょう。

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2012年1月10日 (火)

「何も思い煩わないで」

                ピリピ4章6,7節

 主が備えてくださった2012年の歩みの道しるべとなるみことばです。

 1.神への全幅の信頼

 人生に多くの心配事が起こります。その 「思い煩い」 は、「無知」 「わがまま」 「他の人への誤解」、また人間の意志と無関係に 「肉体的ハンデイ」 からも来ます。思い煩いは、私たちの心を占領し、他の視点で考える心の余裕がありません。神様から焦点がはずれ、自分一人でもがき苦しみ、不安、いらだちで心は一杯となります。「思い煩い」 を克服する第一歩は、「神に全き信頼」 を寄せることです。神のみことばの約束を握って、その中に生きることです。神に信頼して 「祈る」 ことが、私たちの 「心の態度」 です。

2.神に感謝し祈り委ねる

 パウロはピリピの教会に 「あなたがたが、最初の日から今日まで福音を広めることに預かってきた・・」 と神に感謝しています。神への感謝が溢れますと、心を蝕む思い煩いが消えていきます。感謝をもって、私たちの祈り、願いを神に知っていただくことです。そこにすべての人の考えに勝る 「神の平安」 があるのです。 『昨年は思い煩いの渦巻く日々』 でした。

ーかつてパウロは、ピリピで投獄を経験しました。苦しみのどん底、将来を見通せない現実、真夜中の汚い牢獄でシラスとともに 「神に祈り、賛美」 をしています。その暗闇が神を賛美し、祈る 「聖い場」 と変えられました。神のご介入が起こり、「解放」 と看守とその家族の 「魂の救い」 に繋がりました。

 ペテロは 「あなたがたの思い煩いを、神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださる」 と語ります。2012年の一日一日、あらゆる場合に感謝をもって神に祈っていきましょう。そこに 「神のわざ」 を見るのです。

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2012年1月 2日 (月)

ー主の年ー2012年ー 「何も思い煩わないで」

                 ピリピ4章6節

      「何も思い煩わないで、

        あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、

        あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」

 新しい主の年2012年の歩みをともに始めることができ感謝します。

 この年、私たちは昨年の大震災による激動の日々を主が確かに重荷を担ってくださったことで迎えることが赦された主の年であると信じます。

 主に信頼することを最優先できるなら、「何も思い煩う」 ことはないのです。

 あの地震以来10ヶ月が経過しますが、被災地の方々のこの冬の寒さとの戦いを心に覚えるとき、主の守りを切に祈っていきたいと思います。

 北赤羽キリスト教会は2013年は献堂10周年を、また2014年には宣教20周年を迎えようとしています。ここに至るまで当教会に集われ、信仰の歩みをともにされた方々との多くの祈りと犠牲の上に教会の歴史が形成されてきました。確かに主のご計画があって、この地域に建てられた 「主の教会」 として、主を証しし、宣教の御業を継続させていただくことができました。

 信仰生活の中で起こってくる、「人生の荒波」 の中に、主がいつも伴ってくださり持ち運んで、困難をも乗り越えさせてくださったことに感謝が溢れます。

 貧困と飢餓、疫病、自然災害等が起こり、終末といわれるこの時代に、主に信頼する兄弟姉妹が豊かに起こされることを祈り願っていきたいと思います。

 同盟教団の120周年記念が地震のために延期となり、今年の11月に、121周年記念として 「愛」 をテーマとして開催されます。

 私たちの信仰生活の中に力強く生きて働かれる 「主の御業」 に心から感謝をささげ、この新しい一年も主の御名を崇める日々となることを願います。

 

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2011年12月19日 (月)

「聖誕 愛といのちの主」

                 ヨハネ1章9~13節

                第1ヨハネ4章9,10節

 ご聖誕の主を待ち望みつつ、みことばに耳を傾けましょう。

1.愛といのちの光

 「すべての人を照らすそのまことの光が世にこようとしていた」(ヨハネ1:9)

 キリストは暗黒の世界に輝く唯一の 「まことの光」 です。2000年前、神の御子イエス様の御誕生は、人類を救う 「神のご計画」 が確かに実行に移された瞬間です。「光」 は、私たちの生活に大切なものです。多くの光の中で快適な生活をすることができる環境にありながら、私たちの心は 「神の光」 に照らされることを恐れるのです。イエス様が 「いのちの光」 として、おいでになったにもかかわらず、人々は、このイエス様を受け入れませんでした。神から遠く離れていた私たちは、「神の真理」 の前に心砕かれることができなかったのです。

2.御子のいのちに

 「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって、私たちにいのちを得させてくださいました」(第1ヨハネ4:9) 今日、希望を見失い、人間の尊さが軽んじられています。今こそ、私たちは聖書に立ち返る好機と考えます。私たちが全面的に信頼できるお方はイエス様ご自身です。「神の愛」 は、私たちの理解を超えています。「聖誕の主」 イエス・キリストは、私たちの罪のために十字架の上で身代わりとなって死なれ、三日目によみがえられました。

 神のひとり子の死によって私たちの罪は赦され、御子のいのちに生きる者とされました。東日本大震災、原発事故の悲しみ、苦しみの中に 「まことの神」 の憐れみを知り、心癒され 「まことのいのち」 に生きる方々が起こされています。地震から一ヶ月経ったとき、気仙沼のある教会があった場所には、「荒削りの十字架」 が立てられていました。「聖誕の主」 が私たちの先頭に立ち、日々重荷をになわれ、足元から信仰生活を支え、守ってくださった1年間でした。

           

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2011年12月12日 (月)

「待ち望む方」

                        増田満喜子

                     イザヤ9章1節~7節

1.時代背景

 預言者イザヤはイエス様がお生まれになる700年以上前に活躍した人物です。この時代、北イスラエル王国はアッシリヤに攻められ、国全体が絶望の中にありました。また南ユダ王国も自分たちの国の将来に希望が持てず、恐怖の中を歩んでいたのです。今の私たちの時代と重なります。しかし、悲しいことに、こんな絶望に取り囲まれてもなお、民は、指導者は、唯一真の神に立ち返ることをせず、心を頑なにしました。これこそが 「闇」 です。

2.光が照った

 しかしその闇に光が照ります。こんなにも頑なな私たちを主は顧みてくださるのです。神様はあなたをあきらめません。3~5節は士師記のギデオンが選ばれた300人だけでミデヤン人10数万人を神様の力により頼んで打ち破り、勝利を収めたことが描写されています。神様は私たちが主に信頼するとき、どのような重荷も 「打ち砕いて」 くださるのです。そしてこの光とはひとりのみどり子、私たちの罪からの救い主、イエス・キリストです。

3.イエス様のご性質

 では救い主イエス様はどのようなお方でしょうか。

1)不思議な助言者 主は私たちに確かな道を示し、人知を超えたご計画と助けをもって私たちを導いてくださる方です。

2)力ある神 天地万物を創造され支配しておられます。そしてその主は、あなたのために戦い、あなたのために勝利を収めてくださる方です。ヨハネ16:33

3)永遠の父 永遠とはいつでもどこでも、どのような時でも、という意味です。たとえあなたが主から離れていたとしても、主はあなたの父であり、あなたを待っておられるのです。

4)平和の君 ただの平和ではない。どのような戦いの中でもその苦しみを乗り越えていくことのできる真のシャローム(平和・平安)です。そしてイエス様ご自身が平和そのものであられます。

 このお方を私たちは待ち望むのです。

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2011年12月 5日 (月)

「子どものように」

                      増田 満喜子

                       マルコ10章13~16節

 1.連れてくる

 私たちは子どもを神様のもとに連れてくる霊的教育が主によって任せられています。イエス様は子どもたちを大切にされました。そんな子どもたちとイエス様の間を邪魔する者に対して主は憤られます。子どもたちは見ています。信仰に立った歩みをしているか、子どもたちの躓きとなっていないか自らを振り返り、悔い改め、イエス様の声に従っていきましょう。

2.子どもの特徴

 主は 「子どものようにならなければ」 と言われました。それは子どもに罪がないということでも、子どもっぽくなれということでもありません。子どもたちの素直に贈り物を受け取る姿、自分の弱さを知り正直に助けを求める姿、さらに疑わずに信頼し続けるその姿勢に私たちは学ぶのです。

3.アイデンテイテイー

 自分が大切な存在であると知ることはとても重要です。「神に愛され、神の最高傑作として神に創造された自分」 という意識はその人の人生の土台です。神に愛されている自分を知るとき、私たちは自分を大切にすることができ、主からの平安と力を与えられます。神の愛に応え、罪を悔い改め、主に従う者とされるのです。17節以降に登場する青年は神に愛されている自分を知らないため、義務感と絶望に縛られていました。主は子どもたちと触れ合うたびに、「あなたは神様の最高傑作で、神様に愛されているんだよ」 と何度も何度も語られたのではないでしょうか。

4.神の国

 主は 「子どものように神の国を受け入れるものでなければ」 と言われました。神の国はすべての人に開かれています。しかし、すべての人に開かれているのに、その神の国を受け入れない人がいるのです。先ほどの子どもの特徴に習い、私たちは神の国を拒まず、神の愛を受け取り、この神の国の招きに応えましょう。すでにあなたは招かれているのですから。

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2011年11月28日 (月)

「神に栄光を」

            マタイ6章9~13節、エペソ5章15~21節

 主の祈りの最後は、「神に栄光を帰す」 ことで終わります。

1.神にひれ伏す心

 私たちの心にまことの神でなければ満たすことのできない空洞があります。多くの人々は、その空洞を別のもので満たそうとして、ほんとうの喜び、平安がありません。生きる希望もないのです。イエス様が教えてくださった主の祈りによって、しっかり神に焦点を向け、そのお方にのみ心に入っていただくのです。

2.神の支配

 「国と力と栄えとはとこしえにあなたのもの・・」 と主の祈りを締めくくります。 「国」 とは、全能なる神の支配を意味します。「力」 は、神ご自身が 「統べ治めておられる」 ことです。神の秩序と御旨の中に現わされる神のわざです。

3.御霊なる主の導き

 自分の乏しい祈りをどのように充実させていただけるでしょうか。祈りは、「神との会話」です。「わたしを呼べ」 と語られる神に、こころ砕かれて近づくことです。神は私たちの理解を超えて大いなることを成し遂げてくださいます。私たちはどう祈っていいのかわからないときがあります。御霊ご自身が私たちのためにとりなしてくださるのです。熱心に祈り求めるなら、 「神の麗しさ」 を仰ぎ望むことができます。信仰の父アブラハム、自分の現状を超えて、神の約束に全面的に信頼しました。「不信仰によって約束を疑わず、信仰が強められ、神に栄光を帰し・・」 とあります。大震災を体験した私たち、神様の憐れみが浸透しています。傷ついた方々の心を癒される神が確かに働いています。霊の目を開いて 「恐れるべき方」 に栄光を帰すことを祈り願っていきましょう。

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2011年11月23日 (水)

「神の前に健全な歩みを」

        マタイ6章9~13節  エペソ5章15~21節

 主の祈りの最後の部分は 「悪からお救いください」 です。

1.神の愛の配慮

 神様は、私たちを親以上に気遣い、愛の手を差し伸べてくださいます。ペテロを愛されたイエス様は、彼の弱さ、不信仰を知りつつ愛の配慮を注がれます。そのイエス様が十字架の死を遂げられた後、ペテロは絶望しています。ガリラヤ湖に来た彼の前に主は 「復活の姿」 を現わされ、「あなたはわたしを愛しますか。」 と問われます。自分の足りなさ、愚かさを悟って主に立ち返る者は幸いです。

2.悪から遠ざかる努力

 どんな点で悪に屈しやすかったのか、どうしたら悪から遠ざかることができるかです。信仰の努力と姿勢を探ることで、悪循環の連鎖を勇気をもって断ち切ることです。私たちの信仰と知性によってこの問題を乗り超えることです。

3.御霊による勝利

 「悪からお救いください」 との祈りの生活、それは御霊によって実現できる信仰生活です。パウロは、悪い時代であると意識するように、そしてよくよく注意するように、霊の目をしっかり見張るようにと強調します。それは、知性を働かせ洞察することです。神に近づくことです。心砕かれて、主に耳を傾けることです。御霊に満たされることが、信仰生活の要であるのです。そのように心がけていくとき、「祈りの中で」 神様のなさることに、自らを委ねていくことができるのです。「悪から遠ざかり」 キリストのいのちに生かされていきましょう。この悪い時代になんとかして 「神の前に健全な生活」 を築き上げるように、「御霊によって、御霊に助けられて」 歩むことを最優先したいものです。

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2011年11月14日 (月)

「こころみの時」

              マタイ6章9~13節、ヤコブ1章1~8節

 主の祈りの後半 「こころみ」 について祈ることが言及されています。

1.試みについて

 聖書に試練を通った信仰者の記録があります。創世記の中のヨセフはその一人です。その卓越した才能が兄弟たちに憎まれ、エジプトへ奴隷となります。そこでも偽りの証言を受け牢に入れられたヨセフを、神はエジプトの総理大臣としたのです。神がこのように試みを祝福に変えてくださったと証しています。

2.イエス様の生涯から

 イエス様も40日間の断食の後、悪魔の誘惑に会いましたイエス様はこの時 「みことば」 によって勝利しました。このことから私たちは暗闇の試練にどう対処するべきかを悟ることができます。イエス様は 「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。・・」 と弟子たちに忠告されています。

3.私を強くしてくださるお方

 人生の苦しみ、試練を乗り越え、解放される道は、「イエス・キリストの十字架を仰ぎ望む」 ことです。「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は神を愛する者に約束された命の冠を受けるからです。」 とあります。神を仰ぎ望む信仰の姿勢と、神に委ねる心を持つことです。黙って100%神に委ねることです。そこに神の力が現実となって現われるのです。そこに神の力と知恵を体験できるでしょう。「主の憐れみは尽きることがない」 と目を輝かせて神に感謝できます。ヨセフは自分が体験した試みの只中に生きて働かれる神を見たのです。人間の肉のあがきではない、神を信じ、神に祈り、神の愛に満たされ、神のご支配、神のわざを信仰をもって待ち望みます。

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