2014年10月13日 (月)

「主のもとに来なさい」

               第1ペテロ2章1~10節

 献堂11周年を前にみことばの約束のもと、主の御顔を仰ぎ望みましょう。
1.主のもとに
 
「主のもとに来なさい」 と勧めるペテロは、「主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い生ける石」 と告白します。以前神の民でなかった私たち、今は神の憐れみによって神の民とされ、「霊の家に築き上げられる」 のです。イスラエルがすばらしくて選ばれたのではなく、すべての民の中で一番小さい者、取るに足らない者を神は 「愛ゆえに選ばれた」 のです。ここに選ばれた種族とされている根拠を見ます。
2.王である祭司
 
選びが特権であり、王である祭司は教会の尊厳性を現します。祭司は旧約時代、神に仕えた奉仕者です。罪の赦しを願い、ささげ物をする責任を負っていました。しかし2000年前イエス様は十字架により、罪を解決されました。「あなたは私の目に高価で、尊い」 との約束のもとに、「王なる祭司」 とされる尊さがあります。
3.聖なる国民
 聖書は私たちを 「聖なる国民」 と語ります。それは教会の性質を表しています。ペテロは主に愛された弟子の一人です。しかし人一倍臆病者で、短気者、また自信過剰な男でした。3度も主を否むことをしました。イエス様はこのようなペテロの弱さをよくご存じでした。イエス様は甦られた後、失意の中にあったペテロにご自身をあらわされ、「わたしの羊を飼いなさい」 と新たな使命を与えられました。この後、初代教会の立派な指導者とされました。主のゆるしの愛とお取り扱いを体験したペテロは 「主のもとに来なさい」 と力強く証言しているのです。私たちも 「主のもとに来なさい」 と招かれています。主の御前に心砕かれるとき、「愛ゆえ選ばれて」 主が豊かに取り扱ってくださっている恵みのすばらしさを体験するのです。それは 「ご自分の驚くべき光の中にあって、主の愛と救いの恵み」 の確かさを宣べ伝えるためです。
  

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2014年10月 6日 (月)

「イエスの心」

             ヨハネ17章1~8節

 十字架を前にしたイエス様のとりなしの祈りからその心に触れてみましょう。
1.栄光を現すその時
 
「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すために・・・」と祈られるイエス様です。ヨハネはこの17章でイエス様の偉大な祈りを記しています。このイエス様の祈りとその叫びが多くの人々の心を捕らえ、感動を与えています。イエス様はご自分の心を天の父なる神に委ね、何らの心の乱れ、動揺も見られません。まさにご自分の心を断ち割って見せてくださり、全世界をも包み込む広さが見られるのです。
2.永遠のいのち
 
さて永遠のいのちについて 「彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」 と語ります。イエス様が弟子たちに幾度も語り続けてきたことです。この箇所はもっともわかりやすく語っています。
 すべての人を支配する権威が与えられたイエス様が、このように確かに約束されている 「いのちの恵み」 です。ですから今私たちはキリストによって生かされています。
3.神を知る
 
私たちは以前 「神を知る」 ことから遠く離れていた者です。イエス様が十字架に付けられたとき、多くの人々がイエス様を嘲り、罵ったように私たちも同様でした。イエス様は十字架上で 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは自分で何をしているのかわからないのです」 と祈られました。ご自分から十字架に向かわれたイエス様、そこに 「汲めども尽きない神の愛があふれています。まことの神に目が開かれるとき、その人の人生の方向が変えられます。歩むべき道が逆転するのです。神を神として崇めるとき、闇は光と変えられるのです。恥は栄光と変化します。私たちは神でなければ満たすことのできない 「心」 をもっています。神をきよいお方として知ることです。こうしてイエス様の心を知り、神の愛の深さを悟るのです。(Ⅰヨハネ4章10節)

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2014年9月29日 (月)

「私たちの礼拝するお方」

                 岡村又男師

                詩篇8篇1~9節

 詩篇8篇1節と9節をを見ますと同じ言葉で賛美を始め、賛美で終わっています。「私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。あなたのご威光は天でたたえられています。」
 ここに 「主よ」 と呼んでいる主体が 「私たち」 となっています。『私たちの主よ』 これは共に礼拝している会衆全体を指しています。
 ところが3節から8節を見ますと 「私」 という単数で歌われています。これは共に礼拝している 「私」 を表しています。
 教会の礼拝は、共同体として、「共に神を賛美し」 礼拝します。それと同時に、神が一人一人に語っていてくださるのであり、一人一人が神の御前に出てきて礼拝します。私たちは礼拝するとき、「全体と個」 ということを忘れてはならないということです。
 グンケルという聖書学者は、「この詩篇が歌われるときは、1節2節が合唱で、3節から8節は独唱で、9節はまた、合唱で歌われるという3部からなっている」 と語っています。
 第1は、天地創造に思いを馳せて、創造主である神を誉め称えています。1節から3節に私たちが礼拝すべき神がどのようなお方かということが歌われています。
 第2は、4節から8節に、その創造者である神を礼拝する私たちは、いったい何者なのか、人間とは何なのかということから聖書の人間観が語られています。
 第3は、新約聖書の関係でマタイの福音書にこの詩篇の2節が引用されています。ここから 「主イエス・キリストとの関わり」 について学ぶことができます。(21:16) 1節9節を覚えて告白しましょう。
 「私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。あなたのご威光は天でたたえられています。」
 「私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。」

             

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2014年9月22日 (月)

「義の実を結ぶ種を蒔く」

               河野優牧師

             ヤコブ3章13~18節

 イエス・キリストは 「平和をつくる者は幸いです」(マタイ5;9)と言われました。平和が脅かされている現代にあって、平和をつくる者の歩みについて共に覚えます。

義の実を結ばせる種
 
ここでは 「義の実を結ばせる種は・・・平和のうちに蒔かれます。」 といって、「義の実」 と 「平和」 とが結び付けられています。イザヤ32:17では 「義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす。」 と教えられています。神の前に義とされることによって 「平和」 が訪れる。聖書における 「平和」 は 「関係」 において語られます。それも 「神と人間(わたし)」 の関係です。罪人の状態は神に背を向け、神から離れている状態であって神との平和がありません。しかし、キリストの十字架による罪の赦しを信じ受け入れるなら、神との関係は回復され、神との平和を得るのです。
 十字架の福音はこの地上に義の実、つまり神との平和という豊かで祝福に溢れた実りをもたらす種なのです。

平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれる種
 
義の実を結ばせる種は 「平和をつくる人によって、平和のうちに」 蒔かれます。カルヴァンは平和をつくる人についてこう語りました。「上からの知恵によって行動する者は、隣人の間にあって多くのことを寛容をもって耐える一方、義を蒔くことをやめず、平和な方法で他の人の過ちを正そうと努力する。」 私たちは、私はどうでしょうか。平和をつくる人でしょうか。
 神がくださる平和・義の実は、キリストにおいてこの地上に鮮やかに示されました。なぜ、私たちは国の指導者たちのために祈るのか、何を祈ればよいのか。イエス・キリストは十字架上にあってもなお、敵のために、自分をあざける人々のために祈られたではありませんか。
 憎しみではなく愛をもって、私たちは愚直に、神の平和のうちにあって、その祝福を現実に享受し、味わい、感謝し実現していく者として、義を結ばせる種・福音をまくことをキリスト者としてやめません。

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2014年9月15日 (月)

「目をさまして」

                コロサイ4章1~47節

 「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい」 に傾聴しましょう。
1.祈りの課題
 「目をさまして、・・・」(2節)とあります。「寝ずの番をして」 の意味です。イエス様のゲッセマネの園でのお姿がそれであると思います。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい」 と弟子たちに語られたのですが、弟子たちは眠りこけていました。パウロはコロサイに起こった問題を前に 「目をさまして祈る」 ほどに祈りの必要性を強く覚えていたのです。激動する日本に 「目をさまして祈る」 熱心な祈りが、国の変える力となるでしょう。
2.祈りの態度
 
パウロは 「すべての祈りと願いを用いてどんなときにも御霊によって祈りなさい」 と勧めます(エペソ6:18)。継続は力なのです。「祈り」 も諦めずに実行するとき、神のわざが確かに現されるのです。その祈りを御霊がしっかりと導かれます。御霊の助けをいただいて、たゆみなく祈り続けることです。私たちは神との会話である 「祈り」 を疎かにできません。信仰と忍耐をもって祈るとき神は御手を動かされるのです。
3.祈りの祝福
 
パウロはこの時ローマの獄中にあったでしょう。置かれた環境は軟禁状態でした。パウロの思いは一段と福音の前進に向けられています。周りの困難を突破できる道は同じ信仰に生きる兄弟姉妹の 「とりなしの祈り」 にあると確信しています。キリストの奥義が語れるように祈ってくださいと言及。門が閉じられていても失望しないパウロです。その門を開くことができるのは神であると悟っております。この信仰と祈りの姿勢から私たちも大きな励ましを覚えます。荒廃した日本に神の憐れみが注がれることを信じ、期待して祈りたいと思います。諦めることなく、熱心にたゆみなく祈ることです。失望せず、神の御心がなると確信することです。神に祈り、神が答えたもうことに全面的に信頼することです。霊の目の焦点を自分自身を超えた 「神の無限の力」 に合わせることです。「祈り」 こそ人が後の世に残すことのできる最大の遺産です。

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2014年9月 8日 (月)

「十字架 神の怒り」

                井上慎治神学生

            民数記21章4~9節  ヨハネ3章13~15節

 出エジプトしたイスラエルの民はカナンの地へ。その道中、民は神への不従順を繰り返し、神は怒り民を滅び尽くそうとした。モーセの仲介もあり神は民を赦したが、出エジプトの第一世代は荒野で死に絶え、次世代がカナンの地に入るようにした。そしてカナンの地を目前に民は荒野に引き返し40年間放浪した。40年後、再びカナンの地に入ろうとする直前の話。4~5節 第一世代は荒野で滅びたが、子、孫の世代も神に反抗。神と直接語ることが許されたのは仲保者モーセだけだった。民は 「あなたがたは」 と神とモーセに直接物申した。 幾度も怒りを抑えた神に民はどう映ったのか。
 6~7節 神は燃える蛇によって、その怒りをあらわにした。民は災いが自分たちの罪故であると気づき、蛇を取り除くよう神に祈ってくれとモーセに願った。民は神への畏れを抱いた。8~9節 旗竿の上に付けた青銅の蛇を仰ぎ見れば、生きるという救済措置。神にとって民は滅びるのが相応しい存在で、民の願いは聞き入れなかった。しかし神に従うか否かを試した。ここで生き残った民も民数記25章では異教徒の神々を慕い礼拝、再び神の怒りを招き、滅びることとなった。民の信頼は一時的だった。
 ヨハネ3章13~15節 イエス様がこの荒野で上げられた蛇の出来事を引き合いに出し、十字架の贖罪のわざを語っている。イエス様に信頼する者は永遠のいのちに生きる者となる。ここに神の愛が示された。しかし神の愛の前提にあるのは荒野で民に下されたような神の怒り。Ⅰヨハネ2章2節ではイエス・キリストは全世界の罪のためのなだめの供え物とされている。人に向けられた神の怒りは、罪とは何の関わりも持たなかったひとり子イエスを身代わりに殺すことでやっとなだめられるのである。イエス様に信頼するとは、自分の全てをイエス様に委ねていること。自分に少しでも望みを残していないか。自分をどこか立派で神のために何かできる存在と思っていないか。人間は何かをしたからではなく、生まれた時から完全に罪に堕落している。1%も神に喜ばれ得ない存在。「私は罪人です。でも・・・」 と自分に望みを残すことはイエス様に信頼していると言えるのか。「神が全く正しく、私が間違えていた、私は死んで当然」 と納得することが、イエス様への信頼の源泉。イエス様の十字架を忘れてはならない。

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2014年9月 1日 (月)

「黙って神を待ち望む」

           詩篇62篇1~12節

 激動する日本と世界、私たちの生き方をみことばに照らして黙想しましょう。
1.黙って神を待つ
 
「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る」 ダビデの生き方、信仰の姿勢です。神の視点から自分とその置かれている場所を見極めています。自分の思い、願い、計画が実現できず苦しむことがあり、失望、落胆することがあります。ダビデは人間が経験する歩みの中で 「私のたましいは黙って・・」 と100%神に信頼し、神を仰ぎ望み、神のみわざが現実となる 「恵み」 を現実に体験しました。
2.心を注ぎだして神を待つ
 
ダビデは 「あなたがたの心を神の前に注ぎ出せ・・」 と語ります。人間の思い、願いを超えて神の可能性に信頼する姿勢です。もだして神を待つのです。遅くてもひたすら神に信頼して待つのです。「わが望みは神から来る」 と徹底して神のご真実を待ち望むことです。その時心の中の思い煩い、わだかまり、苦しみが消え去るのです。
3.神を待ち望む幸い
 私たちの人生、信仰生涯を展望してみましょう。いろいろなことを経験する私たち、その人生は荒波に乗り出す舟のようです。そこで人にはできないことも 「神にはできる」 と確信するのです。世界宣教大会が終わりました。50年前に国外宣教の必要を訴えた先生のお証しに心が揺さぶられました。9年間の沈黙を破って後、神は今日まで同盟教団の国外宣教を祝され、多くの宣教師を諸外国に遣わされたのです。「神のなさることは時にかなって美しい」 のです。東日本大震災以来3年5ヶ月ですが。不透明さが増している状況です。信教の自由さえ、脅かされかねない風潮が見え、「イエスは主です」 との信仰告白を堅持していきたいと思います。パウロは 「艱難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」 と語ります。信仰と忍耐によって歩んだ人物にヨセフがおります。ヨセフの生涯から 「黙って神を待ち望む幸い」 が見えるのです。想像を絶する苦難を味わったヨセフ。ヨセフのような 「神を恐れる」 指導者が日本に起こされることを主に祈り、待ち望みたいものです。

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2014年8月24日 (日)

「泥沼に沈み込むときの祈り」

          戸坂聖書教会  砂原和史牧師

           詩篇69篇1~3、3~18、29~36節

 人生はさまざまな問題に直面します。この詩篇の著者は泥沼の中で身動きも取れない絶対絶命の状況です。ある牧師がそのような時の対処法を紹介されていました。
 してはいけない事3つ:①自分で自分を救おうと試みてもがいてはならない・・・自分の力で解決しようとしているうちに力が尽きてしまいます。自分では処理できない問題があることを認めましょう。②他者に救いを求めない・・・共倒れになってしまいます。③もうだめだと諦めてはならない・・・諦めるには早すぎる。「悪すぎてもいけない。愚か過ぎてもいけない。自分の時が来ないのに、なぜ死のうとするのか。」(伝道者7:17)
 すべきこと 3つ:①自分で自分を救おうとすることを諦め、主に救いを求めること・・・素直に主により頼もう。②苦しみ痛みの中で粘り強く神に信頼し、救いを諦めるな。・・・主の助けが遅いように感じているだけで、実は私たちの忍耐が足りないということもあり得ます。
 イエス様と12弟子が舟上で嵐にあったときイエス様は舟のともの方で寝ておられました。その時弟子が 「先生私たちが溺れそうでも何とも思われないのですか」 と叫びます。そんな弟子に対してイエス様は 「あなた方の信仰はどこにあるのか」 と問われます。神様は私たちが苦しんでいるのを遠くから見ておられるお方ではありません。むしろ同じ舟に乗り込み、静かにその状況を支配しておられるお方です。
 この詩篇の著者は13節になると 「みこころのときに」 と言葉が付け加えられています。主よ。急いでください、という祈りの中で、主は御心の時に助けを与えられるという確信の中で祈りましょう。③困難の中でも主に信頼し、神を賛美することです。まだ助けは与えられていないが、共に主がいてくださる事がすでに救いなのだと気付き、安心し、感謝の賛美を捧げるそのような信仰者とならせていただきたいと思います。やせ我慢ではなく、主を見上げる時、そこには必ず救いがあります。
 「あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、 『神をあがめよう』 といつも言いますように」(詩篇70:4)

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2014年8月18日 (月)

「苦しみのときに」

               詩篇91篇1~16節

 神に信頼する者の恵みと祝福の原点についてみことばに傾聴しましょう。
1.神に信頼する人
 
「主はご自分の羽であなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身をさける・・」 と神に対して徹底した信仰の告白です。いと高き方の隠れ場に住む者、全能者の陰に宿る、と表現されています。「信じる」 ことが 「住む、宿る」 と生きて働かれる神との交わりとして解かれています。多くの日本人の感覚とは全く逆です。もっとこの国に神に信頼する者が起こされ、神の祝福から遠ざかっている人々のため祈りが必要です。
2.神への信頼と応答
 
私たちにとって、神の恵みは朝毎に新しいのです。日中の忙しさの中で、一瞬一瞬神が共に歩んでくださっていることに感謝が溢れます。夕には忙しかった仕事を終えて我が家にあって主が疲れを癒してくださいます。今日一日の主の守りに感謝し、寝床に就くとき、そこでも私たちの目は 「主の麗しさ」 に向けられるのです。こうしてパウロは 「心の一新によって自分を変えるように」 (ローマ12:2) と勧めています。これが私たちの霊的な礼拝、神に力強く、積極的に応えていく唯一の方法です。
3.神への信頼と祝福の原点
 
「わたしを愛しているから助けよう、わたしの名を知っているから・・、わたしの名を呼び求めるから答えよう」 と約束してくださる神様です。神へのこのような信頼、そこには打てば響くような神の恵みがある」 と詩篇の記者は告白をしています。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さない生き方です。イエス様は 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければだれひとり父のみもとに来ることはありません」 (ヨハネ14:6) と。神への全面的信頼を疑うことがないようにしたいものです。現状を認めつつも、忍耐をもって祈り続けるところに、私たちの思い願いを超えて神は祝福を満たされるのです。私の信頼するわが神と告白する 「神を愛し」 「神の御名を知り」 「神を呼び求める」 歩みをさせていただきましょう。「打てば響くような恵み、祝福を満たして」 くださる神を感謝します。

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2014年8月11日 (月)

「恵みの測り綱」

                詩篇16篇1~11節

 69年間平和が保たれた日本に、一層神様の憐れみと御旨を祈り求めましょう。
1.信仰といのち
 
「あなたこそ、私の主、私の幸いはあなたのほかにはありません」 とダビデは告白します。ダビデは15、16歳で聖書の歴史に登場、30歳でイスラエルの王とされるまで絶えずサウル王に追い回され、逃亡生活を強いられていたのです。偉大な指導者とされるため神様が備えられた道のりと貴重な訓練、お取り扱いであったのです。こうして 「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。・・・」 と語ります。
2.信仰による希望
 
ダビデはサウル王を主に油注がれた方として、決して自分から手をくだすことはしなかったのです。狙おうと思えば機会が幾度もあったのです。あるとき洞窟にダビデが隠れていることを知らずにサウル王が近くまで入って来て、用をたすということが起こりました。このときダビデは心が揺らぎ、サウル王の上着の裾を切り落としてしまいました。この時以来、一層ダビデは神を恐れて慎みました。(第Ⅰサムエル24章) 神に愛される人は、憐れみ、悲しみのない人ではありません。人一倍苦難の中にあっても、主に守られ、練られ、鍛えられ、信仰を全うする人です。
3.信仰と恵みの測り綱
 
信仰とは、時間空間を超えて目に見えない霊的世界の深みを悟ることです。そこで私たちは 「現状はこうです。しかしこのところから神様あなたのみわざと栄光を・・・」 と祈っていくことです。すべてのことの中に神を認めて祈ることができます。ダビデは 「測り綱は、私の好む所に落ちた」 と告白をします。
 「測り綱」 とはへブル語でカノンです。物差し、尺度、基準を表す言葉です。ダビデにとって 「神の物差し」 それが信仰の基準であったのです。神の御旨に沿って広い展望へと導かれるお方です。まことに私へのすばらしいゆずりの地とも証します。そこからすばらしい信仰生涯とされるのです。信仰と希望は主イエス様にあります。信仰の円塾は、聖霊に満たされ、聖霊に導かれてこそ可能とされるのです。

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